Beerhouse³ 営業日誌

ものづくりの街、新潟県三条市でビール屋やってます

サイエンス、カルチャーとノスタルジー

  どうも。新潟県三条市の中心部、「本寺小路」でクラフトビールを中心とした飲食店「Beerhouse3」を、とりあえず何とか開業いたしました店主いけのです。

  

 今日はある2人の対談を読んで、すげー面白いと思ったことと、そこから自分なりに少し広げてみる話を。

 

 一人目は、糸井重里さん、という方がいらっしゃいまして。いらっしゃいまして、と言うか、大半の日本人は既にご存知だろう、と思うのですが。

 

  個人的には、1980年代、バブル華やかなりし頃、芸能人じゃないのに色々とテレビに出ていて、かといって報道番組に出てくるような学者先生とも違う、いわゆる「文化人」の代表の、普段は何をしているのか、よく分かんない人、という印象でした。

 その後、彼がコピーライター、と言って、広告のキャッチコピーを書くことを元々、本業としていて、過去にアレコレのCMのコピーを書いた、ということを聞き、一応、言葉を扱うことを仕事とする家に生まれた身として、ああ、そういう仕事もあるのか、と思ったものです。

 

 そんな糸井さんがインターネットの勃興期から「ほぼ日刊イトイ新聞」というメディアを展開しておられて、たまに見に行くと、すげー面白いコンテンツがあるのだけれども、特段、普段はフォローしていることもなく、ごくたまに見に行く、という状況であります。

 で、新しいプロジェクトとして、東京カリー番長の水野仁輔さんとカレーのプロジェクトを立ち上げ、その第1回が連休中の5月7日、8日にあったらしい…と、5月の9日に見に行って知る。

 ま、事前に知っていても、どうせ参加できませんでしたが…。

  

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 2人目の東京カリー番長の水野さんについては、元々、都内の公園でカレーを作って食べる、というイベントから始まって、いまやカレーに関わるさまざまな活動をされておられる方です。詳細は、上のリンクを読んでいただくのがよいかと。

 

 で、上記リンク中の糸井さんと水野さんのカレー談義がすごく面白いのですが、特に、その中で、おいしいカレーとは、どういうものか、おいしいカレーには何が必要か、というくだりがあって、それがすごく興味深い。

 以下、一部引用します。

 

水野 たとえば、つきあってる2人がいて、
   彼が彼女のためにカレーを作るわけです。
   そして彼が
   「4時間かけてタマネギをアメ色にしたんだよ」
   とか伝えて、食べた彼女が
   「おいしい!」とか言うわけじゃないですか。
   そのおいしさのなかには、
   「わたしのために4時間やってくれた」が、
   すごく重要なエッセンスとして
   入っているわけじゃないですか。

 (略)

水野 そのカレーを食べている2人のところに
   ささっとぼくが行って、
   「いやいやいや、タマネギ炒めに
   4時間とか要らないから」
   ‥‥とか言ったら。
   「15分で大丈夫だから」って。
 (略)

   だけど、カレーのタマネギをどうしたいか
   だけを考えたら、4時間は要らないわけです。
   とはいえ、2人の「おいしいカレー」のためには、
   その4時間がすごく大事なんですよ。

 (略)

   「性能」と「そこに込められた思い」は
   また別なわけです。
糸井 そこは「思いの話」なんですよね。
水野 結局カレーって、さまざまな要素が、
   おいしさに影響を与えるんです。
   まず「サイエンス」と「カルチャー」の
   側面があって。

 (略) 

   たとえばインドの料理人たちが
   チキンカレーを作るときには、
   鍋にバーンと生肉をぶち込んで、
   強火でグツグツ煮るんです。
   インド料理はそうやって、何百年も安全に作られてきた。
   これはインドの食文化であり、
   「カルチャー」側の作り方です。

 (略) 

   だけど調理科学の「サイエンス」の視点からすれば、
   鶏肉は、下味をつけて、
   表面を焼いて余計な脂を落として、
   弱火で優しく煮たほうが、絶対おいしくなる。
   この2つは相容れないわけじゃないですか。

  (略)

   「インドの料理はこうです」と作るやり方もできるし、
   「インドはこうですが、調理科学的には、
   やっぱりこのほうがおいしいから、今日はこうします」
   というやり方もできる。

 (略)  

   そして、さらにカレーのおいしさには
   いまの「サイエンス」と「カルチャー」
   に加えて、さっきの
   「わたしのために4時間
   がんばってくれたからおいしい」
   といった「思い」の部分も絡むじゃないですか。
糸井 あるねえ。
   「お袋のカレー」とかもそうだよね。
水野 そうなんです。
   そういうときのおいしさってもう
   「サイエンス」とも「カルチャー」とも
   まったく違うところにある。
   特にカレーの場合は、この「思い」の部分が
   すごくおもしろいんですよ。
   「サイエンスカレー」と「カルチャーカレー」と‥‥
糸井 「ノスタルジックカレー」?
水野 そうそう、ノスタルジックカレー。
   「で、おいしいカレーにも
   これだけありますけど、どれにしますか?」
   みたいな考え方ができるわけです。
  (略)
   みんな、思っている以上に、
   「思い」の部分が大切だったりするんです。

 

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 これは、あるよねぇ。

  

 個人的に特に共感できるのは、前職で担当した「三条鍛冶道場」という施設での講座のことを思うからです。

 鍛冶道場の体験講座の中でも特に人気なのが、そもそも施設の原点となった、現役の鍛冶職人の指導を受けながら、自分で刃物を作れる、という講座。そこで、参加者の製造体験をどこまで職人が手伝うか、で毎回、鍛冶職人の皆さんと議論になるのです。

 

 「カルチャー」に関して言うと、伝統工芸のイメージとは裏腹に、鍛冶道場に関わってる職人さんたちの場合、あまり意識はしていません。

 1つには、刃物の材料となる鉄が、江戸時代の製鉄技術がそもそも失われてしまって、現代では江戸時代と同じ鉄を手に入れることが困難なので。

 もちろん、大まかな鉄の性質については、昔と変わらない工法が通用する部分も多いのですが、少なくとも産業革命以降の西洋科学においては、製造業、特に鉄を扱う分野は、熱力学と並んで、十分に研究されてきて、ほとんど「サイエンス」として解明されてしまっている。

 鍛冶職人の皆さんが継承する伝統工法は、カルチャーな工法だから採用する、と言うより、カルチャーの正当性がサイエンスとして実証されており、乖離がない。

 刃物用の鋼については、一部マニアックな領域もあるのですが、それらの「カルチャー」の残滓も、少なくとも、三条の場合、岩崎航介という偉い方がいて、おおよそ「サイエンス」として十分、翻訳されてしまっているので*1

 

刃物の見方

刃物の見方

 

 

 問題なのは、「ノスタルジー」です。

 

 たとえば、鍛冶と言って、皆さん、思い浮かべる「熱間鍛造」。赤く熱した鉄を、鎚で叩く工程では、叩く温度と回数が内部の組織を決定する上で、つまり材料の機械的性質を決定する上で重要なのですが*2、まあ、参加者の皆さんは、そんなことは理解していないし、理解していても対応できない訳です。

 他の工程も、職人が手を出して自分でやった方が早いし、確実に品質のよいものが出来上がる。

 だけれども、参加者としては、「自分でつくった」という「思い入れ」が大事だったりもする。

 

 たとえば、結婚する男性が妻になる女性のために、ヘタクソなりに庖丁を造っていくようなケース。指導者の庖丁を買って帰った方が、遥かに見栄えもいいし、使い勝手もいいと思うのだけれど。

 そして大半の職人は、どうせなら、ちゃんと使える道具を使ってほしい、と考えているのだけれど。

 だけれども、彼と彼女の感動を考えたら、なるべく職人が手を出さずに、「自分でつくった!」と思えたほうがよい。

  

 振り返って、体験講座に限らず、商品そのものを売る場合でも(これは「ノスタルジー」と言うよりも、「カルチャー」の部分に属するのかもしれませんが)、機械生産ではなく、職人の手仕事が評価されつつある現代社会というのは、そういう「人の思い」を評価する流れなのかもしれません。

 特定の誰かは分からないけれども、誰かが一生懸命つくってくれたものだから、大切にする、というような気分。

 

 いや、いけのは、機械工学科出身なので、大手メーカーの機械生産の商品だって、その背後には、開発者や生産現場の人たちの一生懸命な仕事があると思うのですけれども。

 ただ組織的につくられた何かと、顔が見える「人」がつくった物には違う価値を感じる時代になっている。 

 

 カレーに話を戻すと、4時間タマネギを炒めたカレーと、科学的に正しく大量生産されたナショナルチェーンのカレーや、レトルトやチルドのカレーに飲食店は、どう対抗していくのか。

 だいぶ前に吉野家さんの話を書きましたが、セントラルキッチンで科学的に調理済の食材を、加熱して盛って出すだけのナショナルチェーンの飲食店ですら、コンビニやスーパー、あるいは今後、おそらくアマゾンを脅威に感じるような時代なのですよね。

 

beerhousecubed.hatenablog.com

 

 サイエンスが進化して、わざわざ出かけなくても、誰でも家庭でおいしいごはんを手軽に食べられるようになることは素晴らしいことだと思うし、この流れは誰にも止めることはできない。

 

 そうなると、一流の経験と技術を持った一部の高級店は別として、普通の飲食店は、一体、どういう価値を提供して、市場の中で存在価値を発揮していけるのでしょう。

 普通以下の調理技術しか持ち合わせていない当店なんて、なおさら、そこを掘り下げなければいけないのですが、さて、どうしたもんでしょうね…?

*1:さらにその姿勢を継承して、今も伝統的工法の科学的正当性を追求している職人さんたちもいらっしゃいます

*2:ちなみに、この工程を「鍛える」という訳ですけども現代鋼の場合、元の品質がよくなる、ということは多分なく、品質を落とさないことが重要になります