Beerhouse3営業日誌

ものづくりの街、新潟県三条市でビール屋はじめました

大谷清兵衛抹殺計画

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侍の決闘のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや

 

 どうも。新潟県三条市の中心部、「本寺小路」でクラフトビールを中心とした飲食店「Beerhouse3」を、とりあえず何とか営業しております店主いけのです。

 

 抹殺するも何も大半の人にとっては「大谷清兵衛って誰すか?」って話だと思うんですが。ちなみに、読み方は「おおたに・せいべい」。

 

 とは言え、三条市郷土史、あるいは産業史、もしくは両方に興味をお持ちの方なら、超有名人なのであります。そいつを歴史の闇に葬り去る、というプロジェクトです。

 

 BGMは「Creeping Death」 by Metallica でお願いします!

 


Cliff 'em All - Opening and Creeping Death

※動画はベーシストのクリフ・バートン存命中の映像を集めた「クリフ・エム・オール」から。音質悪いですが。

 

 Die by my hand

 I creep across the land

 Killing first born man

 

 

燕三条地域の金属産業のルーツ

  三条市は、庖丁や大工道具、作業工具、建築金具、建設金具、鍛工品などの熱間鍛造を中心とした金属加工産業が盛んな街です。

 お隣の燕市では、槌起銅器(ついきどうき)に始まって洋食器、プレス加工、表面処理などが得意であり、合わせて金属加工の一大集積地となっております。

 さらに両市とも、国内外への販路を持つ商社も多く残っているので、最終製品として仕上げるのに必要な木工、プラスチック、紙器などの周辺産業も生産を継続しているのも特徴。

 

 で、その金属加工産業のルーツはどこにあるのか。

 

 寛永年間、三条城が城主不在となって、幕府直轄地(天領)として出雲崎代官所の管理下に置かれていた時代、当時の代官、大谷清兵衛が、洪水で苦しむ農民の副業として、江戸から和釘職人を呼び寄せ、和釘づくりを奨励した。

 

 と言う伝説がマコトシヤカに囁かれている次第。

 

 まあ、根拠のない大嘘なんですけどね。はい、根拠は全くありません。

 

誤りを正す

 前職で、いけのが三条市の産業のルーツを説明する仕事が発生したときには、この根拠のない俗説は完全無視を決め込んで、大谷清兵衛の存在感を薄めることに成功…しかけたのですが、いけの異動後、伊勢神宮式年遷宮(和釘を三条市から奉納)などもあって、古い資料や、外部の作成した資料を元に、再び大谷清兵衛に光が当たり始めているのを見かけるので、これは完全に抹殺せんといかんのかなぁ、と最近、思う次第。

 

 とは言え、「大谷清兵衛がルーツではない」ことを明らかにすることは「ないことの証明」、いわゆる「悪魔の証明」なので、難しいんです。別に、専門的な歴史家でもないので、手元に常時、きちんとした史料が揃っているわけでもないし。

 

 具体的な文献調査は、今後の課題として、その調査のための備忘録的に、こういう疑義があり、こういう資料を調べる必要がある、という点を以下に列挙。

 

「大谷清兵衛が和釘を奨励した」という当時の史料はない

 この辺は、ちゃんと調査した郷土史家の方がいらっしゃって、大谷清兵衛説の最も古いものは、ウロ覚えですが、昭和以前に遡れないとか。ちなみに、幕府直轄地の代官は、幕府の直臣なので原則、江戸住まいであり、任期数年で現地に一度も訪問しないまま異動になることもあったとか。

 もちろん、大谷清兵衛が奨励したという史料が見つかっていないからと言って、大谷清兵衛が奨励したという事実がないことの証明にはなりませんが。

 

江戸時代を通じて、三条・燕地域で和釘生産が盛んだったことは事実

 現在でも三条市では「建築金具」、「建設金具」の製造・販売も主要な産業となっており、これらの企業さんのルーツが和釘であった可能性は大いにあります。

 また、明治時代に「洋釘」が入ってきた結果、「和釘」の需要が激減する一方で、生活の西洋化に伴って、西洋風の新しい商品の需要が生まれたことで、和釘から転業した職人が多いであろうことは想像できます。

 あるいは、伝統的な製品であっても、たとえば、大工道具の製造・販売も三条では戦後の高度経済成長期には大きな産業でしたが、これも幕末から明治にかけて伸びた可能性が強く、その販路は和釘からの建築ルートであった可能性もなくはないと思います。

 

 以上2点は、和釘が三条のルーツ、という伝説が信じられるようになった背景として有力な条件。この辺りを正確に把握しておくことも俗説を打破する上で、精緻な論考を可能にすると思われます。

 

炭素鋼の加工技術はどのように導入されたのか

 お隣の燕市で銅器が発達したのには、間瀬で銅山が開発され、会津から銅器職人がやってきて、そこに和釘の下地がある人たちが銅器職人に弟子入りした、というような話は聞いたことがあります。

 一方、三条。和釘は、鍛冶でもいわゆる「生鍛冶」で「刃物鍛冶」ではありません。つまり、温度管理が重要な「炭素鋼」の加工技術がないため、仮に和釘がルーツだとした場合、どこかから鋼の加工技術が移植されない限り、刃物鍛冶は生まれてきません。

 確かに、江戸時代後期には、会津や与板(長岡市)との交流の痕跡があるのですが、それまで三条に刃物鍛冶はなかったのか。 

 

幕府直轄地(天領)以前の城下町・三条には鍛冶は存在しなかったのか

 そもそも三条という街の成り立ち自体が混沌として分からないことも多いし、南北朝期の長尾氏入城以降、江戸時代初期までの三条の町の歴史を書くだけでも1記事になりそうな長さがあるのですが、結論から言うと、当時の三条に鍛冶職人がいない訳がない、と店主いけのは考えております。

 ただし、これも「三条に鍛冶が存在した」という同時代史料や遺跡などの明確な証拠はどこにもなく、状況証拠の積み上げが必要な状態です。

 

河川交通の要衝として栄えた三条に船大工はいなかったのか。その道具、金具はどこで生産されていたのか

 伊勢神宮が20年に一度社殿を建て替え、お引越しをする「式年遷宮」に際して、ここ数回、三条から和釘や金具類を奉納しておりますが、三条に依頼が来るまでは誰が作っていたか、というと、伊勢・志摩の舟鍛冶さんらしいです。木造船の需要が減って現在では対応できないのだとか。

 鉄は日本では貴重な原料であるため、日本の木造建築では「継手」など金具を使わない接合方法も発達した訳ですが、舟に関しては、水漏れを防ぐために昔から一定量の金具が使われていた模様。

 実際、前職のときに、和舟の復元を試みるグループの方から舟釘の調達について相談を受けたこともあります。

 ちなみに、戦後間もないころまで、洪水が多く、水田が遊水地として利用された三条郊外の農家さんには出水期の移動用に和舟が常備されていたとか。

 もちろん木造船ですから、金具の他にも、その木を切ったり、削ったりする道具(刃物)はどうしていたんだ、という話でもあります。

 

戦国時代末から江戸時代初期にかけての新田開拓時代に、どのような農具が使われ、それはどこで生産されていたのか

 河川交通の要衝で、河川氾濫も多かった三条周辺は元々泥湿地で、戦国末期から江戸時代初期にかけて新田開発が積極的に進められたのですが、その開墾に使う土農具は、どこでどう調達されたのか。

 つまり、大谷清兵衛が農家に和釘づくりを奨励した、として、困窮した農家というのは土着後、2~3世代しか経ってない新興農家の可能性が高く、そもそも鍬や鋤や鎌(そして、これらは刃物ですね)をどこでどう調達していたのか。

 

寛永年間=3代将軍家光の時代の幕府直轄地で、士農工商を逸脱する農家の副業を奨励する可能性はあるのか

 困窮した農家を救済するなら、むしろ道具鍛冶を連れてきて、新田の開墾を推し進め、生産性の高い農業経営を指導すべきでないか?

 ちなみに寛永年間の終わりには、寛永の大飢饉が発生して、幕府の取った政策は、副業の奨励ではなく、むしろ農家の転業禁止、農業の経営安定化支援、だったとか。

 

そもそも代官が善政を敷いて住民が救済された、とかいう水戸黄門的ストーリーがこの地域の住民性の本質からかけ離れていませんか?

 歴史好きであると同時に理系の人間として、ここまでなるべくロジカルに、大谷清兵衛説では、辻褄が合わないのでは、という指摘でしたが、最終的には個人的な気持ちの問題で、なんつうか、全然、面白くない。

 逆に言うと、前出の、確認される大谷清兵衛説の最も古い資料、というのは「中央政府から派遣された役人が地方都市の活性化のために知恵を授ける」という話を気に入りそうな人の手によるらしいですよ。ウロ覚えなんですが。

 

論点整理

  以上を整理すると、大谷清兵衛説が脆弱性は、代官が農民に副業として和釘づくりを奨励したのかどうか、和釘づくりが刃物鍛冶に発展したのか、という2段階あると思います。

 そして、三条市の金属加工産業のルーツを探る上では、特に後者の、釘から刃物鍛冶に発展したのか、刃物鍛冶の技術が釘鍛冶に広がったのか、どちらも並行に発展したのか、を見極めるのが筋がよいのでは、と思われます。

 

 上記の大きな論点を整理するため、個別の論点をヒマをみて精査してまいりたい、けど、しないかもしれないので、ご興味をお持ちの方は調べていただければ幸いです。

 一応、自宅から店に来る途中で、ちょっと遠回りすると市立図書館があるので寄ろうと思えば毎日でも寄れるのですが…。資料によっては県立図書館、ヘタすると米沢(上杉氏関連文書)とかまで行かないとなんだろなー、と。