Beerhouse³ 営業日誌

ものづくりの街、新潟県三条市でビール屋やってます

長野県長野市篠ノ井杵淵に行ってきました

 どうも。新潟県三条市の中心部、「本寺小路」でクラフトビールを中心とした飲食店「Beerhouse3」を、とりあえず何とか営業しております店主いけのです。

 母親の旧姓は「杵渕(きねぶち)」です。正式には、ブチなのか、フチなのかハッキリしませんが、耳で聞く限り、祖父は「ブチ」と自称してたように記憶しております。

 

 さて、日本人の名字の起源というのは、色々あるのですが、一番多いのは、平安末期から戦国時代にかけて、武士階級が領地/居住地を名乗りに使った、というパターンです。

 もちろん、支配者だけでなくて分家や、論功行賞の一環で家臣に同じ苗字を下賜したりもあったようなので、単純にその土地に昔、先祖がいたらしい、ということしか分からないんですが。

 

 で、うちの母方の祖父は、村松(現・五泉市)の出身なのですが、村松界隈でも特に多い名字という訳でもなく、山を遥か越えた小千谷とかには結構、いらっしゃる、とか。ってことで、その辺の山奥にルーツがあるんすかねー、とか思っていたら、このインターネット時代、杵渕氏のルーツらしき地名が現在も残っていることを知る。

 

 しかも、長野県に。

  

 いや、もちろん、「杵渕」というのはどう見ても地形に基づく地名なので類似の地形であれば同じ地名が他の場所にも存在する可能性はあって、たとえば、新潟県内にもインターネットで引っかからないくらいの「小字」くらいの地名で残っていたり、あるいは既に失われた古い地名が起源、ということも考えられますが、何となく長野の方が面白そうじゃないですか。

 

 てことで、行ってきました。長野県長野市篠ノ井杵淵*1

 

 長野市に合併する前に一度、篠ノ井市に合併されてるので、篠ノ井と頭に付くようですが江戸時代までは杵淵村だった模様(旧杵淵村のさらにその中に、今も小字で杵淵集落があるようなんですが、今回は現地でそこまで細かく確認せず)。

 

 長野市内での場所は、下の地図の赤いピンのあたり。 

 

 

 西から東に向かって流れてきた千曲川が北へと90度流れを変えた右岸の、典型的な自然堤防上ですね。実際の地域としては、赤いピンをクリックした後「Googleマップで見る」をクリックしていただくと、旧「杵淵」村の広がりをみることができます。

 

 で、この場所、戦国史上の超重要地点、川中島のど真ん中じゃないですかー!

 

 周辺の黄色いピンを順に説明しますと、一番北(上)にあるのが、「八幡原古戦場」、その下が「典厩寺」、その下右端が「海津城址(後の松代城)」、下真ん中が「妻女山」、下左が「雨宮の渡し」、となっております。

 

 特に有名な第4次川中島合戦の経過は以下のとおり。

 この地図で下、南の甲斐から武田晴信、改め信玄が信濃制覇を狙って北上し、「海津城」を築城。

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 松代城(旧海津城)本丸跡、北西部石垣。写真右と比べて明らかに工法が異なる。

 

 永禄4年(1561年)、長尾景虎関東管領上杉政憲から家督関東管領職を譲られ、上杉政虎(後の謙信)と改名すると、関東進出を盤石にするに当たり、後顧の憂いを取り除き、背後の信濃を制圧するため、この地図の上、北の越後を出立し、善光寺で兵を整えた後、「妻女山」に布陣。

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※妻女山から東方、海津城方面を望む…意外と遠くて城はよく分からんけど周辺平地なんで兵の動きは見えやすいでしょうねぇ…あと大きい川の近くなのでめっちゃ霧は立ちやすそう

 

 両軍にらみ合いの膠着状態を打開するため、武田軍は別動隊が妻女山を攻撃して上杉軍が山を下りたところを平地で本隊が叩く、という山本勘助の献策と伝わる「啄木鳥戦法」を採用。

 武田軍の動きを察知した上杉軍は、「雨宮の渡し」から千曲川を渡河し(鞭声粛々夜河を過る)、「八幡原」に向かう。

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※河道がすっかり離れてただの平地となっておりますが(金網の向こうに一応、細い水路)、頼山陽による「鞭声粛々」の碑。4行詩なのに4行で書かないのか…

 

 八幡原に向かっていた武田本隊と上杉軍が激突、不意を突かれた武田軍は混乱の中、信玄の弟、武田信繁はじめ、重臣が討ち死に。遂には政虎自ら信玄本陣に切りかかったと伝わる。妻女山を攻めた武田別動隊がこれに気付いて八幡原に急行したことにより、形勢が悪化した上杉軍は善光寺を経由して越後への帰途に就く。

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※八幡原ってくらいで元々、八幡神社があって信玄はそこに本陣を敷いたそうです…あれ、信玄は本陣を広げるくらいの余裕はあったのか。

 

 合戦から60年後、海津城改め松代城に入った武田遺臣、真田信之は、川中島で討ち死にした武田信繁を弔い、信繁が本陣を敷いたと伝わる寺院を、信繁の官職名「左馬之助」の唐名「典厩」にちなんで「典厩寺」に改める。

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※写真右奥の本堂に武田菱! 良くも悪くも、あんま観光地ナイズされとりませんでしたが…あ、あとこの日、普通にお彼岸で墓参に来ておられる檀家さんぽつぽつ…

 

 なお、上述のとおり杵淵村杵淵はここから数百メートル離れてるんですが、いかんせん古い集落で車でのアクセス悪い&ケータイ・バッテリも心配てことで、とりあえずは、この「典厩寺」も旧杵淵村内!ってことで満足して、帰途に。

 

 さて、この杵淵村に杵淵家のルーツはあるのか。

 川中島が上杉、武田両軍の激突地の背景となったのは、元々、この善光寺平よりももう少し南の葛尾城に拠った村上義清が、武田晴信の北上による圧力を受けて、越後の長尾景虎を頼ったためで、これが第一次川中島合戦(1553年)の契機となっております。

 村上義清はそのまま長尾氏の臣下に入って、第4次川中島合戦にも従軍しているようですが、信濃時代の村上義清の家臣に、ちゃんと「杵渕国季」という人物がいたようです。ご先祖(かもしれない人)!

 

 ネット上でしか見ておらず、ちゃんとした紙の史料は確認しておりませんが。

 村上義清自体のその子孫の動向が不明な点が多いところでもありますので、家臣の杵渕氏の動向なんて調べるにもどこから手を付けりゃいーのよ、というところですが、まあ、このとき一緒に越後に入って、そのまま越後に土着したんですかねー、とか思う訳であります。

 村上氏の動向が不明ですが、上杉家はご存知のとおり会津、米沢と続けて転封しており、それぞれ暇を乞いて土着した家臣と、付いていった家臣がおるようですので。

 

 ちなみに、先ほどの「雨宮の渡し」の千曲川を超えた対岸は「横田河原」と呼ばれており、平安時代の終わり、木曽義仲平氏追討の挙兵をした際にも、ここで越後からの軍勢と激突したことが、同時代史料や「平家物語」でも確認できます。

 で、琵琶法師によるライヴ中心で広まった「平家物語」に対し、書籍として読むことを前提に広まったため、より豊富なエピソードを収める「源平盛衰記」には、越後側についた富部城主、富部家俊の家臣として、「杵淵重光」という郎党も登場する模様です。市立図書館の開架書庫に昔「盛衰記」もあった気がするんですが、誰も読まないのか見当たらなかったので、本編確認できず。

 

 最後に、同じくマイナー姓名の「いけの」ですが愛知県犬山市に「入鹿池」という大きな湖があって、その湖畔に今も地名が残っているようですけども、さすがに愛知は遠すぎるんじゃねーかな、と思う次第であります。そこは蒲原平野で、河川の氾濫、あるいは逆に新田開発によって失われた湖畔の地名なんじゃないですかねー。

 こちらからは以上です。

*1:フチの字はどっちも同じ意味で「渕」が略字なんですかね。ウチの祖父ちゃんも両方使ってた気がします