Beerhouse³ 営業日誌

ものづくりの街、新潟県三条市でビール屋やってます

近世城郭都市遺構としての三条市街地

 どうも。新潟県三条市の中心部、「本寺小路」でクラフトビールを中心とした飲食店「Beerhouse3」を、とりあえず何とか営業しております店主いけのです。

 

 たいそうなタイトルをつけたものの、これから書く話は実は、あんまり学術的な根拠はないんですよね。調べものをする気もなく。

 なので、まあ、そういう説もある、くらいで流していただくか、もしくは、嘘くさいな、と学術的に検証いただき、アップデートしていただければ、と思う次第。

 

 さて、平成17年に合併する前の旧三条市は、人口あたりだったか市域の面積あたりの公園面積が全国でも最も小さい街だったらしいんですよね。

 はい、これ、さっそく伝聞で、根拠は調べてないです。

 

 とは言え、確かに、保育所時代の散歩の時間や、小学校の写生の時間とか遠足で、あるいは放課後の遊び場として、公園に出かけた記憶がない。たいがい、そういうとき、公園の代わりに向かう先は、神社や寺院の境内でした。

 旧三条市の中でも特に旧三条町に関しては、公園らしい公園を思いつかない。それは、おそらく公園の代わりに神社や寺院の境内が、子供たちの遊び場としても緑地としても、防災上の隔離スペースとしても機能しているから公園が必要ない、ということなのだろう、と思います。

 

 では、三条が、いわゆる門前町かと言うと、近世(≒江戸時代)以降は、門前町+宿場町として発展してきた側面が強いのだろうけれど、実は、三条の基礎になっているのは、城下町の寺町なんですよね。

 

 はい、この辺も根拠が薄い話なんですが、この辺から本題です。

 

 いかんせん、あまりにも史料が乏しく、三条の町場がどのように形成されてきたかは、江戸中期以前に遡ることが難しいのですが、遅くとも、元和2年(1616年)、市橋長勝によって築城された近世三条城の城下町は、その街並みが現代までかなり保存されております。

 ちなみに、大谷派三条別院(東別院)の創建が元禄3年(1690年)ということで、別院は既に街が出来上がったところへ移ってきた、ということですね*1

 

 ここで現代の地図と古地図を比較した画像をアップすると、よいのでしょうが、あいにくどちらも手元にありません。

 

 現代の地図としては、Google Mapを見ていただくと、図書館の前の南北の道路が湾曲しておりまして、実は、そこからちょっと視野を広げていただくと、三条小学校周辺の四方をぐるっと取り囲んで一周できる道路があるのが分かる方には分かるかと。一部、寸断されてはいますが。

 

 

 これが近世三条城の堀跡です。本当は古地図と見比べていただくと一目瞭然なんですが。

 

 で、この城の東側に多数の寺が集まっているのですね。

 東本願寺門前町として成立した街であれば、門前には浄土真宗の末寺が並ぶはずです。たとえば、嵐南の本成寺周辺は、そうだと思うんです。

 一方、三条城東側の寺院群は、浄土宗・極楽寺曹洞宗・宗正寺、福昌寺、真言宗・実盛寺、そして東別院の門前に浄土真宗・輪宝寺と浄円寺、さらに現在の弥彦線を越えて北に浄土真宗正覚寺(西)、善性寺(東)、真言宗・宝塔院、曹洞宗・定明寺、時宗乗蓮寺が並びます。

 

 なぜ、これだけ多数の宗派にわたる寺院が並ぶかと言えば、ここに意図的に集めたからでしょう。

 

 中世末期から近世初期、平城が盛んに築城され、総曲輪(そうぐるわ:総郭、総構え、惣構えとも)と呼ばれる、城下町を含めた防衛体制が敷かれた時代には、寺院を集めた寺町を最終防衛ラインとして配したケースが多いようです。

 山城が中心だった戦国時代よりは政治・経済の重要性が高まって、平野部の河川周辺に城が移りつつも、まだ合戦に備える必要があった時代の築城・都市計画です。

 寺院の広大な境内が、戦乱時においては火災の延焼防止ラインとして機能すると同時に、兵隊を集め、陣地を構築する広場としても機能したことが理由のようです。

 ようです、ばっかりで確証のない話で申し訳ないんですが。

 

 三条の場合、五十嵐川、信濃川の流路は現代と当時とでは違った可能性もあるのですが、ともあれ、西の信濃川、南の五十嵐川を天然の堀として(北側にも水路があった可能性があり)、東側に寺町を配したのは、東からの侵入に備えてのこと。

 

 もちろん、市橋氏が三条に入ったときには、大阪の陣(1615年)も終わって、ある程度、平和な時代が訪れているので、近世三条城の築城以前に、防衛計画としての城下町が形成されている可能性は十分にあります*2

 

 前述のとおり、平城と城下町の発展には、戦国時代が終わり、防衛拠点としての山城よりも政治・経済の重要性が高まったことが背景に挙げられますが、加えて、織田信長兵農分離を進めた結果、職業軍人としての武士を城下に住まわせ、その生活を支える商人・職人も住まわせたことが嚆矢と見られています。

 

 上杉氏が会津に転封となった後(1598年)に、三条に入った堀直政は元々、織田家の家臣であり、主君・堀秀治の居城を春日山城から平城の福嶋城に移して城下町を整備しています。

 一方で、関ケ原の合戦(1600年)に際しては、家康が上杉征伐の軍を西に向けると、越後国内の上杉残党が会津の上杉軍に呼応して、三条周辺でも戦闘が発生しています。

 また、堀家改易(1610年)の原因となったのも、直政嫡男、堀直清が僧侶と宗論となって、これを殺害したためであり、当時、三条城下に多数の寺院が存在したのでは、とも思います*3

 

 もちろん、中世の築城以来、信濃川河畔に平城としてそびえた三条城は、もっと古い時代から城下町を備えていた可能性はありますが、この辺りも史料が乏しく、想像の域を出ません。

 

 ともあれ、三条市中心部に多数の寺院が甍(いらか)を並べるのは、城下町の防災計画によるもの、というお話でした。

*1:城に替わる拠点機能を期待されていた面はあるでしょうが

*2:近世三条城の築城に当たっては城地を東に移した、という記録があるので中世末期三条城がどこにあったのか、移転前後の城下町の関係は不明なのですが

*3:父の三条城主・堀直政はほとんど府中に詰めていたことを考えると、直政死後の直清も府中にいた可能性もありますが