Beerhouse³ 営業日誌

ものづくりの街、新潟県三条市でビール屋やってます

是に於いて仲春の令き月,時は和らぎ氣は清む

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 どうも。新潟県三条市の中心部、「本寺小路」でクラフトビールを中心とした飲食店「Beerhouse³」を、とりあえず何とか営業しております店主いけのです。


 2019年5月1日の改元に先立ち、4月1日に発表された新元号「令和」。

 出典は「万葉集」巻5に収められた「梅花歌32首」の序文で、天平2年(730)正月に、大伴旅人の家に歌人たちが集まって、春のめでたさを互いに詠みあう様子を記す中に、

 于時、初春令月、気淑風和

 とあるそうです。

 

 

天平万葉集」巻五

  漢文の読み下しは、諸説あるようですが、下記サイトでは、「時に、初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ」としています。

manyou.plabot.michikusa.jp

 

 また、岩波文庫さんのツイートでは、下段を「気淑(うるは)しく風和(やはら)ぐ」と読んでいます。

 

 めっちゃいい天気だし、酒でも飲んで歌おうぜ。れっつ・ぱーりー。

 

後漢・張衡「帰田賦」

 ところで、このフレーズは、梁の昭明太子が変遷した詩集「文選(もんぜん)」にも収録されている、後漢の張衡(78 - 139)の「帰田賦」の本歌取りとのことです。

 文選は天平期にはインテリたちの必読書であったので、大伴旅人たちも当然知っていたはず。

 

 張衡は後漢の科学者で、天災の多発する時代に天文学、数学、地震学などに才能を発揮した人物なのですが、順帝の時代(125 - 144)の宦官が専横する政治に嫌気がさして隠居し、田舎に引きこもるときに詠んだのが「帰田賦」とのこと。

ja.wikipedia.org

 

 ちなみに、順帝の学友で抜擢され、後に宦官のトップに上り詰めたのが「三国志」の曹操の祖父、曹騰。

 宦官は子供を産めないので、本来は一代で終わるはずの権力が、この時代、養子をとることで継承させることが横行しはじめ、曹騰の養子、曹嵩の息子が曹操

ja.wikipedia.org

 

 後漢は幼帝が続いたため、その母である皇太后が権力を持ち、皇太后につながる宦官と外戚の権力争いに、地方豪族出身の士大夫を絡めながら衰微して、党錮の禁、そして黄巾の乱何進董卓の台頭を招いて三国時代へ…。

 

 本題に返って、張衡の「帰田賦」ですが、「都に出てきて長いこと経つけど、全然、世の中に貢献できた実績ないよ」と謳いだす、疲れ果てて田舎に帰る歌のようです。

 

 

その中段で、仕事を辞めるにはいい季節、という春の高揚感を謳ったところに

於是仲春令月,時和氣清

という句が出てきます。

 

 

 中国語ですが、全文は下記Wikisourceに。黒太字が本文。赤い小さい字は注釈。

zh.wikisource.org

 

 日本語訳を探してググったらマトモそうなサイトで一番上に出てきたのが、まさかのジオシティーズ! 2019年3月31日でサービス終了! 1日間に合わず!

 一応、Googleのキャッシュを。Ctrl+Fで「帰田賦」でページ真ん中あたりに白文、書き下し文、現代語訳があります。

http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:I5AcTwuAv_IJ:www.geocities.jp/no_tohoku/kansi/kansi.6.htm+&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

 

 前段で「感蔡子之慷慨,從唐生以決疑(蔡子の慷慨にして 唐生に従いて疑いを決せるに感ず)」に出てくる蔡子とは、中国戦国時代の蔡沢のこと。この人も仕官を求めて諸国を歴訪したけど用いられなかった人物で、ある日、唐挙という人相見に「あなたの寿命は後43年です」と言われて、笑って「43年で十分だ」と答え、その後、秦の昭襄王に宰相として仕えた、という故事のようです。その後、秦王政まで仕えた…てことで、一応、「キングダム」にも出てくる人物みたいですね。

 

ja.wikipedia.org

 

 また、「文選」が日本の知識人に親しまれたことから、中段の「龍吟方澤,虎嘯山丘(龍のごとく方沢に吟じ 虎のごとく山丘に嘯(うそぶ)く)」という句からは、四字熟語も出来ているようです。初めて聞きましたけど。

 

dictionary.goo.ne.jp 

 

東晋王羲之「蘭亭序」

 ちなみに万葉集で大友旅人たちが参照している古典にもう1つ。

 人々が宴席に集まって詠みあった歌に序文をつけるのは東晋の書家、王羲之(303 - 361)の「蘭亭序」(353)に倣っているようです。

 書家として有名な王羲之も、元々は東晋の有力貴族の家に生まれながら、敢えて中央政権とは距離を置いて、自ら願って地方都市に転出して、そこで文人たちと交流しながら生きた人のようで。

 

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

 

再び天平2年大宰府

 張衡、王羲之と中央から離れて暮らす先人に思いを馳せる天平2年の梅の宴会。この舞台は大宰府です。

 当時の大宰府は、まだ安定しない九州の統治や、遣唐使を中国・韓国へ送り出し、また外国使節を受け入れる玄関口としての役割など、重要な任務を背負う一方、この後、901年に菅原道真が辿るように、中央政界からの左遷という意味合いもあったようです。

 出席した他のメンバーや実際の歌の内容まで見ていませんが(見ろよ)、少なくとも派遣されてきた本人たちは、都への望郷の思いや、あるいは中央政治の混乱とは距離を置いて地方で純粋に生きれる感動というのは、あったんだろう、と思います。

 

 なにしろ、この天平2年正月、というのは、聖武天皇の治世、皇族の長屋王と、夫人・光明子外戚、藤原4兄弟の権力闘争の末、前年の神亀6年(729年)2月に長屋王が自殺、8月に天平改元され、藤原氏が権力を掌握し、光明子が皇族以外から初の皇后になる、という時代なので。

 

オリジナリティと知識 

 ところで、これまで元号漢籍から取ることが普通だったのに、今回初めて国書の「万葉集」から取られた…と思ったら、それは、やはり「文選」からの本歌取りで大元は漢籍だった、というのも話題になっております。

 

 電子計算機と情報通信網が結びついてインターネット上に情報の海が広がる今の時代には、情報を検索しやすくなって、誰もが容易に莫大な情報にアクセスできるようになったため、どれだけの知識を所有しているかという博識さの価値は低くなり、オリジナリティの重要性が高まっています。

 少なくとも、世間の趨勢は、オリジナリティを称揚する方向に向かっているようです。

 

 一方、知識を外部化するツールとして書籍ですら貴重だった古代においては、どれだけ多くの知識を持っているかが賢さの象徴であり、また、その博識を土台に新しい世界を広げていく、という努力があったことは、この「万葉集」の序文を通じて、改めて思い直すところです。

 

 いたずらにオリジナリティを追求した、その先にあるのは、いわゆる「車輪の再発明」であって、現代においても、世界全体を前進させるのに必要なことは、過去の知識に学び、「巨人の肩の上」に立って、より遠くを見渡すこと、なのだろうと思う次第です。

 

 瀧本哲史さんのこの辺のツイートとか。

 

ja.wikipedia.org

 

ja.wikipedia.org

 

 

 なお、ヘッダの写真はPixabayから探してきました。

pixabay.com