Beerhouse³ 営業日誌

ものづくりの街、新潟県三条市でビール屋やってます

乃至・高橋「天下分け目の関ケ原の合戦はなかった」を読む

 どうも。新潟県三条市の中心部、「本寺小路」でクラフトビールを中心とした飲食店「Beerhouse³」を、とりあえず何とか営業しております店主いけのです。

 

 ヤバい。10月21日になってしまった。1600年の10月21日、日本の暦では慶長5年9月15日、関ケ原の合戦が行われた日です。

 実は、9月15日あたりに読み始めたけど、関ケ原の合戦の本戦が9月15日だということは、読む前は、すっかり忘れていて、読み終わって感想を書かなければ、と思ってるうちに気付けば10月21日。

 店で使っているPCのネットワークまわりの調子が悪いので、Web上で編集するブログ記事は中々、書くのにハードルが高く…。

 

 

  さて、本題。

 ちょっとトンデモ本みたいなギョっとするタイトルだけど、割と真面目な本らしい。

 

 たとえば、太平洋戦争で言うと、真珠湾攻撃に始まって、ミッドウェー海戦ガダルカナル、レイテ沖、サイパン硫黄島、沖縄、広島・長崎、といった一連の事件は、「戦闘」や「作戦」であっても、「戦争」そのものではない。

 それらを全部、ひっくるめて「太平洋戦争」と呼ぶのだし、あるいは、対米開戦のきっかけとなった日中戦争と併せて、「大東亜戦争」と呼び、ドイツを中心とするヨーロッパ戦線と併せて、「第2次世界大戦」と呼ぶ。

 

 本書の主張も、9月15日の関ケ原での合戦が、たった一日で、その後の日本を一変させる大戦争だった訳ではなく、それ以前から続く、大きな政争の一部と考える、という主張のようです。

 ついでに言えば、9月15日の合戦が実際に行われた場所も実は、明確な遺跡などは発見されて特定されている訳ではなく、本当に「関ケ原」なのか微妙らしい。

 

 江戸時代以降に編纂された書物は、家康の遺蹟を顕彰したり、自身の先祖がいかに幕府成立に尽力したかを過大に評価する一方、西軍側を貶める傾向があり、さらに、資料の足りない点は、後からの解釈で、よりドラマティックに描き出そうとする。

 まして、私たちが日常的に触れている「歴史書」は、実は、江戸時代以降、庶民のエンターテインメントとして発展した「軍記物」に依拠していたりもする。陳寿の「三國志」と羅漢中の「三国志演義」のように。


 そこで、本書は、同時代の日記や手紙の類を丁寧に読み解き返すことで、当時の状況を探ろうとする。

 

 慶長3年(1598年)3月、かぞえ6歳の幼君、秀頼を遺して豊臣秀吉が逝去した後、五大老の中でも特に強大な徳川家康、残る大老前田利家毛利輝元上杉景勝宇喜多秀家と、五奉行を中心にした豊臣体制維持派、朝鮮出兵などを巡って五奉行(文治派)に不信感を抱く、武断派の豊臣大名という微妙な権力バランスが発生する。

 

 本書は、まず、祖父・毛利元就から「天下を競望するな」と遺言されたにも関わらず、積極的に政局にかかわる毛利輝元に注目する。

 西軍を主導したのも、先立って七将襲撃事件で失脚していた石田三成ではなく、輝元と残りの増田・長束・前田玄以の三奉行であり、光成はいわば巻き込まれた形と見る。

 しかし、輝元家臣(従弟)で元就の遺言を守る吉川広家は、独断で徳川方と和睦交渉を続けていた上に、西軍の主力を指揮する文治派諸将は、朝鮮出征でも指摘された戦下手ゆえに岐阜城を落とされ、西軍は近畿への要害、大垣城を拠点としたまま、家康本隊の西上を待つ東軍と向かい合う。

 

 9月14日、家康が美濃の前線に到着すると、その夜、小早川秀秋の東軍への寝返りが発覚。巷間言われる、15日の開戦後の寝返りではなく、かねて秀秋は決心しており、家康着陣により、決戦を前に動いた、と著者らは主張する。

 東軍と秀秋に挟撃される形になった西軍主力は、近江への退路を確保すべく、14日夜、大垣城を脱出して西に向かう。15日朝、これを東軍が追撃して衝突した、と著者らは見る。15日開戦の時点で趨勢は決していた、と。

 

 仮説としては興味深い提案が詰まっている、と感じました。ただ、同時代資料を扱う上での難しさも感じるところです。

 同時代の日記や手紙を書いている人たちは、同時代であるがゆえに、相手方の実情を知らない場合や、噂話に頼っている場合がある。特に、電話もインターネットもない時代なので。

 また、自明すぎて、敢えて書いていないこともある。さらに、手紙であれば、相手は秘密を共有するに足る信用できる存在なのか、密書を奪われた場合に備えて秘匿したい情報、あるいは、相手を動かすために敢えて煽って書く場合もある。

 著者らもそういった同時代資料の難しさを指摘しながら、新説を提案しているのですが、いかんせん、同じ理由で、根拠の弱さが否めない説も散見されます。

 

 これらの新説は、複数の文書を照らしわせることで整合性を保つしかないのでしょうが、いかんせん、過去のことなので、参照できる同時代資料の数は限られていて、今後も新発見資料に期待するよりは、既に発見されていて見過ごされていた描写を再検討することで、研究が進むのでしょうか。

 専門家による今後の議論を待ちたいところです。

 

 読んで1か月も経ってしまったので、詳細は忘失してしまっているね…。