Beerhouse3営業日誌

ものづくりの街、新潟県三条市でビール屋はじめました

諏訪「明智光秀の生涯」を読む

 どうも。新潟県三条市の中心部、「本寺小路」でクラフトビールを中心とした飲食店「Beerhouse³」を、とりあえず何とか営業しております店主いけのです。

 

 2020年のNHK大河ドラマ明智光秀らしいのですが、テレビを持ってないので知りません。ぎりぎりテレビを持ってたのが、直江兼続山本勘助くらいまででしょうか。それもドラマ自体は見ていませんが。 

 で、その辺の事情もあって注目されているのか、明智光秀の本が出ていたので、読みました。

 

明智光秀の生涯 (歴史文化ライブラリー)

明智光秀の生涯 (歴史文化ライブラリー)

 

 

 

 天正10年(1582)旧暦6月2日、この春の甲州征伐により甲斐・武田氏を滅亡させた織田信長は、中国地方で毛利氏に対峙する羽柴秀吉の支援に向かうため、少数の手勢と共に京都・本能寺に逗留していたところ、自分に先立って中国に向かったはずの家臣、明智光秀の襲撃を受け、自害する。本能寺の変である。

 事件を知り中国から急きょ返した秀吉の前に、僅か10日後の6月13日、京都郊外・山崎において光秀も敗死する。

 この一連の事件で逆臣として歴史に名を刻んだ明智光秀だが、信長配下での活動は10年ほどで、前半生はあまり分かっていない。没した際の年齢も、大きく55歳説と、67歳説があり不明。

 

 本書は、公家や茶人・歌人の日記や、手紙などの同時代資料を拾いながら、信長仕官以前の光秀の足跡や、信長配下での行政、軍事、文化面を担う重臣としての躍進、そして本能寺の変まで、タイトルどおり、明智光秀の生涯を紹介する。

 あくまで生涯全体を通して解説しており、帯にある「本能寺の変の真相」や「主君殺しの動機に新見解」といった点には、それほど紙幅を費やしている訳ではない。

 特に、近年、明智氏子孫を自称する方など、朝廷や将軍・足利義昭、あるいはイエズス会や、はたまた秀吉・家康など様々な人物が光秀をけしかけて信長を殺させた、という本能寺の変そのものに着目した、様々な「陰謀論」や、その批判書に比べると、本書では、光秀の人生の終着点として本能寺を取り上げているに過ぎない。

 

 本書によれば、光秀の出自は、美濃守護・土岐氏の庶流で明智城主の明智氏と言われるが、決定的な証拠はないとのこと。何らか美濃に関わりがあるようだが、斉藤道三の台頭に代表される美濃の戦乱を避けて、美濃とつながりの深い朝倉氏を頼って越前に移ったようだ。

 後の15代将軍、足利義秋(後、義昭)は、13代将軍で兄、足利義輝の死を受けて、還俗(げんぞく)し、将軍就任を目指して、永禄9年(1566)、朝倉氏を頼って越前に移る。この越前時代に、光秀は義昭の配下に加わったらしい。

 永禄11年、織田信長の助力を得て、義昭が上洛を果たすと、光秀は義昭と信長の両方に仕えるようになるが、信長と義昭の力関係の変化により、徐々に信長家臣としての色が濃くなっていく。

 

 本能寺の変について、本書で大きく取り上げている動機、きっかけは2点あるようだ。

 天正8年(1580)8月、大坂・本願寺との石山合戦が収束すると、信長は突如、尾張時代からの宿老で石山合戦の指揮官だった佐久間信盛の他、林秀貞、西美濃三人衆の一角、安藤守就らを追放する。

 これにより、光秀は近畿方面を担当する、織田家中随一の家臣となるが、一方、突然の粛清が織田家中にもたらした動揺はいかばかりか。

 さらに、この頃、光秀の重臣斉藤利三と縁戚関係にある土佐の長宗我部元親は、嫡男に信長の偏諱を受けて「信親」と名乗らせるなど、信長の影響力を背景に四国統一を進めていたが、信長が急に方針転換し、三好康長に旧領・阿波の支配を認め、元親に同意を迫る。光秀は、この信長と長宗我部氏との交渉役を担っていた。

 天正10年になると信長三男で、神戸氏の養子となっていた信孝を三好康長の養子とし、本格的な四国遠征の準備を進める。

 

 天正10年6月、北陸の上杉氏には柴田勝家ら、中国の毛利氏には羽柴秀吉ら、そして四国に信孝・丹羽長秀らが出立し、京都には信長、嫡子・信忠が僅かな手勢と共に留まるだけ。この空隙を突いて、中国への支援に向かうはずの光秀は、決起に至る。

 筆者は、行政官、軍事指揮官、文化人としての、緻密で徹底した光秀と比べると、この謀反はあまりにも突発的で、杜撰な計画、と指摘する。信長を倒せたとして、その先にくるはずの秀吉との対決をどう考えていたのか。

 結果、光秀軍団の中核をなすべき、丹後の長岡(細川)藤孝(幽斎)・忠興父子、大和の筒井順慶すらも、この謀反に同調せず、光秀を見捨て、光秀は秀吉の前に敗れる。

 本書では、斉藤利三が首謀者、との公家たちの日記も紹介している。山崎から敗走後、近江で捕縛された利三は、光秀と共に本能寺で晒されたともいう。

 元々、稲葉良通(一鉄)の家臣だった利三を光秀が引き抜いたため、稲葉から返せと言われ、信長もこれに同意したため、光秀、利三がともに不満を抱いた、というエピソードもある。

 なお、利三の妻は稲葉氏出身で、娘の福は戦後、稲葉氏に引き取られ、後に徳川家光の乳母、春日局として権勢をふるうことになる。