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どうも。新潟県三条市の中心部、「本寺小路」でクラフトビールを中心とした飲食店「Beerhouse3」を、とりあえず何とか営業しております店主いけのです。
前職では、市内の鍛冶職人の皆さんと楽しく仕事をさせていただいておりましたが、一般消費者の皆さんと接するときに、ときどき感じていた違和感として、
職人が額に汗をして、手を動かして作ったもの と
機械が24時間フル稼働で精緻に作り上げたもの とでは
どちらが価値があるのか
という。
いや、当方、機械工学科出身ですので…。
一応、機械工学をやってたときのマインドと言いますか、なぜ、どういう機械を造りたいか、という動機として、大上段に構えて言えば、「機械の力で人間をありとあらゆる苦役から解放する」という視点があります。
キツい仕事をどうやってやらずに済ませるか、どれだけ短時間で済ませて空いた時間をより価値のあることに回せるか、といった視点。
たとえば、洗濯機や掃除機の発明が、われわれの余暇やその他の労働時間を作り出すことにどれだけ貢献をしているか、という。
そういう人間なので、「大変な仕事を頑張ってやる」ことに、あんまり価値を感じないのです。
大変ならば、やらずに済む、大変さを減らす方法を考えるべきで。
あるいは、「大変な仕事を頑張ってやる」ことに価値があるとして、機械生産のために、機械の運転・操作をしている人たちはもとより、開発、製造、保守をしている人達は、大変な仕事でもなければ、頑張ってもいないんですか、という。
機械工学科出身者としては、「いやいや、機械だって、その後ろには人間がいて、その人たちは、ちゃんと仕事してますよ」、と思う次第。
なので、人の手を動かしてつくったものと、機械生産のものとで、そこに本質的な差はないのではないでしょうか。
ただし、機械は人間に勝てない部分がある。職人が機械に勝る部分はある。
機械は、人に命令されたことを命令通りにやることは得意だけれども、自分で考えることができない。単純作業の繰り返しは得意だけれども、その都度、臨機応変な判断を繰り返して最適化していく、ということはできない*1。
そして、人間は、自分がやっている作業を意外と論理的には理解していないので、機械に正確な命令を出そうとしても、何らか重要な情報が抜け落ちてしまい、機械が人間の品質を再現できない。
あるいは、正しい命令を出せる場合でも、機械の作業効率を上げるために、作業内容の方を機械に合わせて単純化させる場合もある。つまり、製品の品質を捨てて、コストダウンを優先させる場合が、多々ある。洗濯機より手洗いの方が生地が痛まないと分かっていても洗濯機を使うときがあるように。
しかも、機械は、その単純な(かつ多くの場合、単一の)作業をやらせるためだけに、ある程度、大規模な導入コストが掛かる。
したがって、機械生産は、これは確実に大量に売れて投下資本を回収できる、という規格大量生産(マスプロダクト)には向くけれども、小回りを利かせるのが難しい*2。
という訳で、この豊かな現代日本で、ありきたりで、カスタマイズされていない、マスプロダクトがどれだけ人を熱狂させられるか、とか、価格のために品質を犠牲にすることがどれだけ許容されるか、という視点は成り立ちうる。
そういう意味で、機械が入ってこれない領域、機械が作るより人間が作る方が面白いもの、人を熱狂させるものが出来る、という領域は確実に存在するでしょう。
そして、さらに機械の導入・運用には大きな資本投下が必要となると、それを動かす企業組織も往々にして大規模化していく。
大組織、それを動かす指揮命令系統、というのも、英語で言えば「System」であって、恣意的な意思決定、個人の感情を排して、効率よく、正確に動かそうと思えば、それは大型の機械を動かすことと同じと言ってよい。
上に書いたことを繰り返しますが、システムを精緻に動かすためには、人間による正しい入力、命令、意思決定が必要だけれども、人間はそれほど論理的な生き物ではないので、正確な入力を行うことができない。
手仕事を中心とした小規模な事業者と、機械化された大企業の最大の違いは、その辺りにあるのではないか、と思う次第。
もちろん、大企業の規模の力による圧倒的な価格や供給能力の前に、商品本来の価値だけで戦いきれないのであれば、そこは使えるものは何でも使って戦っていく必要はあるのでしょう。
戦うための武器の1つとして、「働く人の姿」のような美しいストーリーによって色付けすることが、人の心に響くのであれば、そういうことも時には必要なのかもしれません。