Beerhouse³ 営業日誌

ものづくりの街、新潟県三条市でビール屋やってます

三条の地名の由来:どうして三条って三条っていうんですか?

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  どうも。新潟県三条市の中心部、「本寺小路」でクラフトビールを中心とした飲食店「Beerhouse3」を、とりあえず何とか営業しております店主いけのです。

 前回の大谷清兵衛の話も、その後、中途半端に放置しっぱなしなところですが、郷土史ネタ。 

beerhousecubed.hatenablog.com

 

 三条の郷土史関連で、よくある質問と答え。

 

 Q: 三条って、どうして三条っていう地名になったんですか?

 A: 知りません。

 

  以上、終わり。

 

 …でも、いいんですが、一応、諸説あるのを紹介…しようと、コマゴマとしたことを調べ始めたら、調べれば調べるほど、怪しい部分が出てきて、収拾つかなくなってきた上、調べた話をそのまま書いても素人の人には、まるで伝わらない雰囲気なので、前回の大谷清兵衛に続いて、今回も中途半端なまま投下。

 

  

条坊制に基づく説

 条坊制ってのは、京都とかの碁盤目状の街づくりのことで、要するに京都の三条に何らか縁がある、という説。

 

三条左衛門定明に由来する説

 京都の三条絡みの中で、というか、あらゆる説の中で一番有名な(んだけど説得力はない)のが、この説。

 三条左衛門という人は、早くも江戸時代には文献に登場する伝説的英雄で、三条凧合戦やそれをモチーフにしたヤマトヤさんの六角凧サブレでも、しばしば取り上げられています。

www.takosable.com

 

 …あれ? 「早くも江戸時代」?

 

 そう、この人、平安時代に活躍した人物のハズなのに、同時代史料には出てこない人なんですよね。

 

 一般的な設定としては、京に上って立身出世し、京の三条に住して「三条」と呼ばれた侍が、前九年の役(1051年~)に際して東北に下向、そのまま京には戻らず蒲原郡に定住したものの、同地を京の生活を懐かしんで「三条」と呼んだ、とか何とか。 

 

 「三条市史」でも諸説を採録した上で疑義を呈しているとおり、この説の根本的に弱いところは、地名→人名はあっても、人名→地名は、すごく狭い範囲での新田開発とかじゃないと、あんまりなさそうなんですよねぇ。

 

 もちろん、陳寿の「三国志」と羅漢中の「三国志演義」のように、あるいは吉備津彦命と桃太郎のように、少なくとも江戸時代から語り継がれた、という伝説は伝説として大事にしたらいいと思いますが。

 

その他の三条家に由来する説

 三条左衛門が架空の人物として、それ以外の三条と名乗る人物に由来する可能性。

 平安時代の中期から後期にかけては、京都の貴族や寺社が地方の荘園を領有する、というのは、よくあった話で、そういう時代の天皇に、三条天皇後三条天皇という天皇がいたり、また、公家の藤原氏にも三条家があったり、三条家以外の貴族でも京都の三条に住んで通称「三条」と呼ばれた人は各時代に複数いるようです。また、その娘とかは、三条局とか呼ばれたり。

 なので、これらの「三条」と名が付く人が領有する土地が、遠く越後国蒲原郡にもあってその土地が「三条領〇〇」って呼ばれるくらいまでは可能性としてあるんでしょうが、そこがやがて「三条」に省略されるかっていうと…可能性としては薄そうです。

 

条里制に基づく説

 …これは説というか、誰か偉い先生が主張しているのは聞いたことがなく、色々調べてていて、個人的に、まだ、こっちの方がありえるんじゃないの、くらいで思いついた、というもの。

 

 条里制というのは、都の条坊制に対して、計画的な農地開発に由来するもの。いや、厳密な意味では、条里制とは少し違うのかもしれないんですが、鎌倉時代以降の越後国内の土地は、1つの荘園を(相続などで)複数に分割して、〇〇荘〇〇条って地名になってるパターンが結構、あるんですよね。

 

 で、戦国時代、上杉謙信の家臣団には、支配地をそのまま名乗りとしている在地領主が多いんですが、その中に中条(なかじょう)藤資、下条(げじょう)忠親、上条(じょうじょう)政繁、北条(きたじょう)高広、といった人物がいたり。

 中条氏はもちろん胎内市の旧中条町のあたり(奥山荘中条)を支配した領主ですが、どうやら、残り3つも現在も地名として残っているようで、それぞれ阿賀野市下条(白河荘下条)、柏崎市上条(鵜川荘上条)、柏崎市北条(佐橋荘北条)の支配領主です。

 

 他にも新潟県内には今も上条、下条とかいう地名が数多く残っていますね。

 で、だいたい上下か上中下で分割してるようですが、4つ以上に分割したときの3番目、あるいは、元々3つ(以上)に分割されていた(うちの)3つを再度統括し直して、三条…って可能性はないだろうか…? 

 

 この論の弱いところは、だったら、他にも新潟県内(あるいは全国)に、上下ではない、数字の条があってほしいところではありますが。

 

 なお、たとえば、阿賀野市で言えば、戦国時代に安田氏という領主もおりますが、「白河荘上条内安田条」 を支配したのが安田氏、てことで、荘園をさらに細かく分割していったときの地名(今の大字か字、当時の村落くらい?)の後ろにも「条」をつける習慣があったようです。

 だと、「さん」とかいう地名のところに「条」がついて、「さん」だけだと座りが悪い、あるいは「さん〇〇条」が訛って、「さん条」になった上、「さん」の元の意味が忘れられて、漢字を当てて「三条」とかっすかねー。 

 

荘園制に基づくその他の説

 「散所」の転訛した説

 この説はストーリーとしては、個人的に興味深いところなのですが、弱いところは、まず歴史的仮名遣いでは、「三条」は「さんでう」と書くのであって、「さんじょう」や「さんじゃう」ではない、という点ですね。

 

 歴史的仮名遣いは、百人一首で有名な藤原定家が当時乱れつつあった発音と文字の関係を見直したものですが、彼が活動した時代、すなわち平安末期から鎌倉初期の京都では「じゃう」と「でう」はまだ区別ができた。

 で、この混乱は地域差を持ちながら、室町時代くらいまでに進んでいくんですが、越後国での混乱具合がどうかというと、それ以前の問題として、新潟県人にはおなじみの「い」と「え」の混乱が遅くとも室町時代には起きているようで、戦国末期の書状でも、先ほどの「中条」を「なかぢう」と書いていたりするらしい。

 

 もちろん、逆に、現代新潟人が「若い衆」を「わーけぇしょ」というように、「い」と「え」の混乱から「しゅう(しう)」と「しょう(せう)」も混乱しまくっているようです。

 織豊時代の資料で、三条付近に「におくら」という地名があって、おそらく読み方は「にょーぐら」で、今の「北入蔵」のことだったりするらしいので。

 

 なので、「散所」を「さんじう」と発音していて、「じう」って漢字でどう書くんだ? 標準語では「ぜう」だから「条」か? ってことも可能性としてはあるかと思うんです。

 なお、「じ」と「ぢ」も新潟県内ではかなり早いうちに混乱しまくっている模様なので、そこの懸念はなさそうです。

 

 いずれにせよ、問題は、地名「三条」が歴史上に登場するのが、鎌倉時代から室町時代、ちょうど、この訛りが進んでいった時代、なので、当時の発音を再現するのが難しい、という点ですね。

 

 ちなみに「散所」とは、「本所」に対する言葉で、元々、荘園を支配する領主(主に在京の公家や寺社)を「本所」と呼び、そこからさらに領主が支配する荘園の拠点も「本所」、「本庄」、「本荘」と呼ぶようになったようで、全国に今もある地名、本所、本荘、本庄は、これに由来するようです。

 また、「本条」という地名もあって、これも同じ意味と思われます…つうか、今、検索して出てくる例では、前述の柏崎の「北条」と「南条」の間が「本条」だったりするんで、「条」と書くのはやはり「い」と「え」の訛り故の新潟特有の事情なんですかねー。

 

 ともあれ、本所に対して、土地や農作物に課税をされず、使役によって領主に仕えた人たち、あるいはその人たちが暮らした場所が、「散所」。

 農業以外の使役ってのが、地域によっては後世の差別にもつながるようで、内容がよく分からんのですが、河川周辺に暮らす物流業者なんかもいたようです。

 なので、元々、もっと山に近いところに古い集落があって、中世以降に信濃川と五十嵐川の合流点が川湊として発達する中で形成された都市としての三条を指す名前としては、「おぉ、あるかも!」と思わせるものがあります。

 

 訛り以外で弱いのは、では、全国になぜ類似の地名が残らなかったのか、という部分ですね。大字とかでも、「散所」のような地名が残っていれば面白いのですが。

  

その他の説

「三荘」の転訛した説

 3つの荘園をマトメ直した、あるいは隣接しあう土地だったので、「三荘」という説。おそらく当時の荘園の境界は河川で、信濃川、中之口川、五十嵐川、貝喰川あたりが氾濫で流路を変えて境界があいまいになる、あるいは、そもそも緩衝地帯として入会地を設定していた、みたいな状況はあるかもしれませんが、当時の発音は現代とは違う、という問題が、やはりここでも。

 

「産所」の転訛した説

 当時から金属加工が盛んで、物品を産出する場所、という説。まあ、伝説レベルではあってもいいと思いますが。「散所」の方がありえる、と思います。「散所」を「産所」とも書いた、という説もあるようですが。

 

「三本の川」という意味だとする説

  そもそも「条」は、「糸」のように「細長いもの」の意味で、3つの川が集まっている場所だから、「三条」という説。

 おそらくは、漢字の意味から、ちゃんと捉えなおしたのであろう説の1つ。

 

 3本と言うと、中世における信濃川、五十嵐川、中之口川ってことになるんでしょうか。しかし、刈谷田川を含め、当時の川は、おそらく今とは全然違う場所を流れていた、ということしか分からないので、何とも…。

 で、3本の川が集まっている土地だったら、もっと違う地名になりそうな気がしますけどね。

 

 なお、冒頭の写真は、その五十嵐川と信濃川の合流点ですが、繰り返しますが、「三条」という地名が生まれた頃は、この場所で合流していたかどうかすら怪しいところです。