Beerhouse³ 営業日誌

ものづくりの街、新潟県三条市でビール屋やってます

三条と振袖火事

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 どうも。新潟県三条市の中心部、「本寺小路」でクラフトビールを中心とした飲食店「Beerhouse3」を、とりあえず何とか営業しております店主いけのです。

 

 今日のネタは酒場のヨタ話としては、まあまあ知的なネタではあるのですが、まあ、酒場のヨタ話以上のものではないです。お時間ありましたら、お付き合いください。

 一応、疑問点が何点かありまして、そこは学術的に調査されている方がいらっしゃれば是非、ご教示いただきたいとは思うんですが。

 個人的には、こういう、きちんと調べようと思えば労力が掛かるけれども、知ったところで人生に何の影響も与えない、というヨタ話が好きなんですよねぇ。

 

 で、肝心のヨタ話の内容ですが、このところ、当店周辺で火事が続きまして、来店いただいたお客さんとそんな話をしていた中から出たのが、江戸の振袖火事の話。

 

江戸3大大火の1つ、振袖火事 

 「火事と喧嘩は江戸の華」、と言われるほど火消が活躍する機会が多かった江戸の町でも、特に大きな火事として知られているのが、1657年、明暦3年に起きた「明暦の大火」、通称「振袖火事」です。

 当時の江戸の町の大半が焼失し、死者数万ともいわれる中、江戸城も被災して、天守閣は以後、再建されることがありませんでした*1

 

 最初の火事が収束する前に次々に火災が発生して大規模化したこの火事の最初の火元は、当時、本郷にあった本妙寺、という寺と言われています。

 

明暦の大火 - Wikipedia

 

 若くして亡くなった少女の遺品である振袖を焼いて供養しようとしたところ、風が吹いて振袖が舞い上がり、寺に火を移した、というのが「振袖火事」という名の由来なのですが、Wikipediaにも記載があるとおり、これは同時代の史料には見られない記述で、後世の創作のようです。

 

 本妙寺は大火の火元でありながら、厳罰を受けるどころか、その後も幕府による手厚い庇護を受けたことから、失火原因については、幕府による陰謀説や幕臣による失火の身代わり説などもあるそうで、上記Wikipediaでも紹介されている他、本妙寺もホームページでそちらの説を紹介しています。

 

本妙寺 | 法華宗 徳栄山 惣持院

 

 もちろん、これは単純に、実際、失火元なのだけれども、幕府にとって有力寺院であったから保護され続けただけ、という見方もできるのでは、と思うところ。

 

法華宗陣門流

 さて、この本妙寺ですが宗派は法華宗の数ある宗派の中でも、陣門流に属しています。陣門流の総本山は、越後国蒲原郡の本成寺。

 てことで、ここから郷土史ネタですよ。

 

 三条市民で知っている方は知っていると思うのですが、三条市の本成寺には遠山金四郎(あるいは左衛門尉)こと、遠山景元の墓があるのですが、遠山家の菩提寺が江戸・本妙寺で、本山である本成寺にも分骨されている、とのことです。

遠山景元 - Wikipedia

 

 本成寺の成り立ちですが、日蓮の六老僧と呼ばれる高弟の一人、日朗に師事したのが日印。日印は寺泊の出身(1264年生まれ)で、日蓮佐渡流罪(1271年)の際に出会っていたのだけれど、日印が鎌倉に上った際には、日蓮没後で、直接、教えを請うことはできず。

 越後に戻った日印が、引き連れていた牛が跪き、そのまま立ち上がろうとしないところに水がわき、蓮の花が咲いて…という青蓮花寺や牛池の伝説を伝える地が、現在の本成寺(という話を伝説は伝えているので、そこに異論を挟んではいかんのです)。創立は、鎌倉後期、1297年。

 日印の弟子、日静(にちじょう)は上杉氏出身。姉に上杉清子がいて、その息子が足利尊氏、直義兄弟。兄には上杉憲房がいて、その息子の憲顕は、足利兄弟の従兄弟として重責を担い、南北朝期に関東、越後を転戦して、初代関東管領を務める。その上杉氏の重臣が越後守護代で蒲原郡を拠点に活動した長尾氏。…という関係性を考えると、本成寺の立地は牛、ひょっとして関係ないんじゃ…とか思っちゃいかんのです。牛が跪いたんです。

 

 鎌倉末期の1318年から19年にかけて、高齢の日朗に代わって、日印が鎌倉で執権、北条高時を前に、各宗派と宗論を戦わして全宗派を論破し、これを日静が記録した「鎌倉殿中問答記録」という書物があるそうです。

 

 日静は室町幕府成立後、上洛して本圀寺を開く(1345年)のですが、後に日静の弟子で本圀寺を継いだ日伝が天台宗に近づくことを批判し、独立したのが日静の弟子で本成寺を与えられた日陣。越後国瀬波郡加治荘荒川郷の人。

 日陣が本成寺を根拠地に新しい門流を打ち立て門祖となったのが、法華宗陣門流、ということです。

 

本成寺教団の進展 

 先日、読んだベストセラー「応仁の乱」でも、巨大寺院が財源たる全国の荘園を管理するため、幕府権力や、在地領主との関係構築に腐心する姿がうかがえました。

 

beerhousecubed.hatenablog.com

 

 本成寺についても、室町~戦国時代の勢力拡大、各地の在地領主との関係構築の動向も気になるところ。

 ともあれ、本成寺は別院である本妙寺徳川幕府に深く食い込んでいた、ということが、振袖火事前後の動向からうかがえます。

 

 徳川幕府と宗教勢力の関係で一番最初に思い当たるのは、三河一向一揆(1563年)ですよね、やはり。桶狭間の合戦(1560年)後の今川家の混乱に乗じて、独立を果たし、三河平定に向かう松平元康(後の徳川家康)の前に最初に立ちはだかった困難が三河一向一揆

 浄土真宗門徒が決起して、家康配下の武将たちも、親子兄弟であっても家康派と一向宗とに別れて戦闘に及んだ結果、後に三河国浄土真宗が禁止される地域になる。

三河一向一揆 - Wikipedia

 

 この一向宗の鎮圧後、法華宗陣門流三河勢力を広げたのか、あるいはその前から三河まで進出し、一定の勢力を有していたのかは不明です。

 ともあれ、前出の本妙寺ホームページでも、下記のWikipediaの項目でも、本妙寺のルーツは、三河国額田郡(現在の岡崎市)にあった長福寺という陣門流の寺で、徳川家臣団のうち、大久保氏、久世氏、阿部氏などが檀徒であったとのこと。いずれも徳川譜代の重臣ですね。

 そして、徳川家の本領が移るのに伴って、はじめ浜松に創建され、ついで江戸に移った、と伝えています。江戸移転当初は江戸城内にあった、ということからも、徳川家臣団の崇敬が厚かったことがうかがえます。

 

本妙寺 (豊島区) - Wikipedia

 

 ちなみに陣門流の公式サイトによると、現在も先述の岡崎市の長福寺を筆頭にする中部教区と、湖西市浜松市を中心とする東海教区に、それぞれ複数の寺院があって教区を分けているんですよね。地理的には一緒で良さそうなものですが。

法華宗(陣門流)

 

 一方、地元の三条ですが、徳川氏の江戸転封と前後して、三条では上杉氏が会津に移って代わりに堀氏が入り、堀氏の後は、それこそ徳川譜代の幕臣が三条に入る訳で、それらの城主たちと本成寺の関係に、本妙寺の檀徒たちが何らか影響したのか、とも思うところです。

 

 この陣門流、本成寺教団の三河における勢力拡大については、東海地方や全国的な研究もあるのかもしれませんので、機会があれば渉猟してみたいところ。

 三条における史料は、本成寺自体も何度か火事に遭って、結構、失われているんですよねぇ。

*1:日本人は「お城」と聞くとどうしても天守閣を思い浮かべがちですが、日本の築城史の中で天守閣を造るのって100年ないくらいなんですよね