Beerhouse³ 営業日誌

ものづくりの街、新潟県三条市でビール屋やってます

大谷清兵衛抹殺計画 vol.3

 

はい、ビールと郷土史にご興味をお持ちの皆さん、こんにちは。新潟県三条市クラフトビールの店をやってる、いけのです。

 

新潟県三条市、隣の燕市とならんで、すっかり金属加工の集積地というイメージが定着してきた感じがありますが、どうでしょう。特にアウトドア関係。

 

さて、その金属加工はどのようにして始まったのか、そのルーツはよく分かっていません。

 

今日は分からない、ということを書きます。

 

 

大谷清兵衛奨励伝説

三条市の金属加工がどのように始まったか、詳細は分からないのですが、

 

江戸時代の初期、寛永年間に江戸から派遣された代官が農家の副業として和釘づくりを奨励した。

 

と主張する人たちがいます。困ったものです。根拠はないので。

 

この江戸初期、元和9年(1623)、三条城が城主不在となって天領(幕府直轄地)になって間もない寛永4、5年(1627,28)*1出雲崎代官を務めた2人のうち1人が大谷清兵衛です*2

 

なにしろ安土桃山時代から江戸時代にかけて、越後を支配した上杉家が会津、ついで米沢に移され、その後、代わりに入ってきた支配者たちも二転三転して最終的に三条藩が消滅した頃のことで、このころの三条に関する記録が薄く、当時の事情がよく分からないのです。

 

確実な資料としては、天領から村上藩支配に移った後の万治年間(1650年代)の検地帳に突然、鍛冶町が出現し、29軒の屋敷の存在を確認できるのですが、それ以前は不明、となっています。


寛永年間の前半、1620年代に代官が農家の副業として和釘づくりを奨励して、それから30年で専業の鍛冶が町場に鍛冶町を形成するほど、一気に発展するものでしょうか?*3

 

 

鈴木外筰「新潟県工業発達史」を読む

大谷清兵衛奨励説は江戸時代の資料には一切登場せず、昭和に入って突如、言及されるようになったたものです。

 

国立国会図書館のデジタル資料を「大谷清兵衛」で検索したところ、大谷清兵衛奨励説に言及している最も古い資料は、新潟県職員を務めた鈴木外筰氏による昭和30年(1955年)発行の「新潟県工業発達史」です。

 

dl.ndl.go.jp

 

 

かつて燕市郷土史家の方が、昭和に入って新潟県の職員が編纂した産業史の資料で紹介されたのが初出、とおっしゃっていたので、これのことで間違いないと思います。

 

当該箇所を引用します。

 

◎ 燕金物の濫觴と変遷


 燕は古くより川港として発達し、鎌倉時代 (およそ七〇〇数十年前) 既に舟運の便よく、然も蒲原平野の中心にあつて相当栄え、足利時代の明応六年水原憲家がその子景家に所領及び文書を譲る際、新恩「津波目」を譲るとあるところからしても、中越地方の物資集散地となっていたことがうかがえる。


 徳川時代に入って幕府の直轄地となったが、その天領と称せられた領地を治めた代官大谷清兵衛が、度々の洪水や風、虫害による貧窮を救うため夜ナベの副業に家釘の生産を奨めた。この釘は川船製造にも使用されたのであるが、これが燕金物の端緒であり、寛永の頃(約三〇〇余年前)といわれている。また度重る江戸大火災には復興資材用として、家釘の製造するもの一時は数百戸に達したともいわれ、燕は釘鍛冶の町として三条より古く然も盛大で釘の本場として名を馳せていた。これら釘鍛冶を背景として、鑢、煙管 (キセル)、鎚起銅器の濫觴を見また発達したといえる。(p.18)

※下線、太字は引用者による

 

この古い書籍と現在広く伝わっている説と違いは大きく2点

・あくまで燕の金属加工の起源としており、三条に言及していない

・水害だけでなく風と虫による困窮にも言及している

 

この辺りは伝言ゲームで劣化コピーとなる前のオリジナル、という印象を受けます。また「和釘」ではなく「家釘(やくぎ)」と称している点や、川船との関連に言及しているのもコピーされる前のオリジナル、という雰囲気があり、興味深いところです。

 

しかし、この説が突如、現れた主張である上、典拠については一切、記しておらず、仮に燕だけに限った起源説だとしても、これを真実とは到底、信じることはできません。

 

 

一方、ここでは大谷清兵衛奨励説を天領の燕だけに限定して紹介していますが、この書籍では三条についてはどう説明しているのでしょう。

 

p.10では三条、燕、与板に共通する事項として、

・いずれも越後平野の水運の要衝である

越後平野の周辺の農地の開墾に農具が必要である

・三条と与板については城下町であり、武具の製造拠点であった

 

などと推察しています。もちろん、単なる著者の推測であり、これも根拠は一切、示していません。

 

この後、日本の金属加工史と対比しつつ、3産地の発展の経緯を推論していますが、当時の歴史認識の限界なども感じられ、あまり参考にはならないため、ここでは省略します。

 

ついで、与板の沿革を述べ(p.16)、先ほどの燕の解説をした後、三条について触れています(p.21)。

 

三条については、鳥羽松水氏の「三条金物三百年のあゆみ」を引きながら、野鍛冶(農鍛冶)が江戸中期に専業鍛冶に発展した、との見解を示した上で、さらに次のように記述しています。

 

これによって、文献により明らかになっている以前の年代にも既に農耕者の副業或は一部事業者として野鍛冶が存在しておったのではないかということが認められよう。

 

なおまた古鍛冶町の名称が未だ残っているが、これとてもその起源は詳かでないが、城下町として栄えたことを思い合せるならば、徳川以前に武器生産者としての鍛冶工或は小物鍛冶等が存在しておつたことも首肯し得るところである。(p.22)

 

この鳥羽松水氏とはおそらく鳥羽万亀造氏のことで*4、「三条金物三百年のあゆみ」は同書の前年、昭和29年(1954年)発行の「三条市史資料」に所収の「三條金物三百年の足跡」の同内容かと思われます。これもそのうち読みます。

 

副業の野鍛冶が専業の町鍛冶になる、というストーリーも、いかにも昭和の歴史観に沿ったもので、あまり信用できませんが、ここではその詳細は検討せず、

 

・城下町としての三条に言及している

・大谷清兵衛には言及していない

 

という2点が重要かと思われます。

 

 

今回のまとめ

大谷清兵衛奨励説として現在、確認できる最も古い資料である「新潟県工業発達史」を国立国会図書館デジタルアーカイブにより確認し、その内容を検証しました。

 

・大谷清兵衛奨励説の初出は昭和30年(1955年)

寛永4年(1624年)からそれまで330年間、言及なし

・当初は燕だけを説明し、三条は無関係

・河川交通と造船、農地開発と農具という用途に言及

・廃城前の三条城下に鍛冶の集積の可能性を指摘

 

もちろん、過去記事でも繰り返し述べてきたとおり、証拠がないからといってなかったことにはならない、「悪魔の証明」を我々は求められています。

引き続き大谷清兵衛の事績、三条における産業の形成、三条における伝承の変化について、調査していきたいと思います。

 

 

なお、冒頭のアイキャッチ画像は、Stable Diffusion先生に「日本の鍛冶屋」をそれっぽく描いてもらった後、Microsoft Designerでそれっぽく仕上げました。

 

 

過去記事

大谷清兵衛奨励説を検証する過去の記事について置いておきます。

 

第1回では、大谷清兵衛奨励説の証拠がないこと、状況証拠から考えて寛永年間以前に三条には既に鍛冶が集積していた可能性が高いことを示しました。

 

beerhousecubed.hatenablog.com

 

 

第2回では、江戸幕府の公的資料から大谷清兵衛とは徳川家康に仕えた定次の息子、定利であることを確認し、鍛冶の奨励が事績としては公式の記録されていないことを確認しました。

 

beerhousecubed.hatenablog.com

 

 

別件として、三条における大谷清兵衛奨励説の最も古い原型として、昭和39年(1964年)に三条新聞で連載された図書館長、渡辺行一氏の「三条ものがたり」で、三条左衛門説を否定し、燕の大谷清兵衛奨励説が一ノ木戸村にも該当する、という示唆を紹介しました。ただし、ここでも三条町は別と否定的です。

 

beerhousecubed.hatenablog.com

 

 

また「新潟県工業発達史」でも言及される鳥羽氏の著作も収録している、三条市史資料では、三条左衛門説などは紹介しているものの、大谷清兵衛説は一切言及されていないことを示しました。

これは民間伝承を集めた部分だけを読んだもので、鳥羽氏の記述した産業発達史論のところは当時は読んでいないので、今後読むつもりです。

 

beerhousecubed.hatenablog.com

 

 

*1:元和10年2月に寛永改元

*2:もう一人は乙幡重行

*3:30年で急速に発展した可能性の他、万治検地帳に職業は書いてないので、廃城後にいったん鍛冶職人たちは離散し、空き家に鍛冶職以外の人間が移り住んだが町の名前だけは残った、という可能性もゼロではないですが…

*4:雅号?