どうも。新潟県三条市の中心部、「本寺小路」でクラフトビールを中心とした飲食店「Beerhouse³」を、とりあえず何とか営業しております店主いけのです。
前回の記事では、人の背中に背負われる「おばりよん」という妖怪が新潟県三条市ではすっかり忘れられているものの、柳田国男と交流のあった現・三条市出身の外山暦郎さんの著作により、三条市の妖怪として全国的に知られている、という話を追いました。
柳田国男と当地との関連を追うと、他に、昭和18年(1943)に柳田が全国13地域の昔話を集めた「全国昔話記録」があり、このうちの1冊として「南蒲原郡昔話集」があります。
国立国会図書館でデジタル化されて公開されております。
この中に「バロンの化物」として、もう少し長い物語が2編収録されておりましたので、全文引用します。
本文中のカッコは、原著者が方言を共通語に訳したもの、脚注は原文のルビおよび引用者が難読もしくは意訳が必要と考えたものです。話集の中の1編のため、他の話で解説したものなど一部が省略されています。
漢字は入力の都合上、一部、原文では旧字のものを新字に置き換えています。
三三 バロンの化物
其の一
ある処に、父*1ッつァーが馬鹿げに*2どくされ(憶病)で、夜中小便し行くにも、嬶*3起きてくれ起きてくれと言うて嬶を起こして行き起こして行きするので、或る夜嬶が「うちの父ッつァーまア、馬鹿どくされで、してみようがないが*4、今夜は一つたらかして*5、性ッ骨を直してやらう」と、父ッつァーと一緒に便所へ行つて、父ッつァーが用を足してゐる間に裏から夕顔を取つて来て、そろりと父ッつァーの鼻ッつらへつん出しました。それを見て父ッつァー吃驚*6したといふが吃驚したといふが、「嬶々、化物が出たいや」というて、騒ぎである。そこで嬶が「化物てや、こんげな (こんな) もんどいし(ものですよ)」 と言うて、夕顔を出してみたれば、父ッつぁーは納得して、化け物といふものは夕顔の事だかと思ひました。
さうしてゐるうちに、隣り村に化物が出るといふ噂さが出て、それを聞いた父ッつァーが、「そんつら (そのつれの)*7化物、又夕顔だらう」と言うて、嬶が行くな行くなといふのも聞かないで、或る夜退治に出かけて行きました。 行つたれば大入道が出て来て、バロンバロンと鳴いたので、父ッつァーが、「さア負*8ろんなら負*9りれ」と言ふと、化物は父ッつァーの背中に負れたてんが。父ッつァーはそれを負*10てゴンゴンうち帰つて、庭にドタンとほうりつけて、菰を被せて置きました。そして明朝嬶に「俺*11ら夕べ大夕顔負て来た」と言うて、二人で庭へ行つて菰を取つて見たれば、化け物はいつぱい (沢山)の金銀になつてゐたといふ事です。(見附 吉井元蔵爺様)*12
其の二
帯織と指出の間は、喚*13ばり声が届くやうな近い間ですども(ですけれども)、冬になるとしがらしい風が吹いて、女ッこなどは、一*14らッこでは通られない茅野でした。其処へ持つて来てそれ、夜さりになると化*15が出るんだんが(から)、誰も怖つかながつて通る者がない。 そこでの帯織の金子角兵衛殿という大兵があつて、晩景*16酒呑んでホロホロ機嫌で 、「でァでァ俺が行つて、その化物を退治して来るすけに、嬶戸をあけて待つてゐてくれや」と言うて、出かけて行きました。
処が十一時頃になつても何の音もしない。「今以てへェ化物が出て来ないが、どうしたがんだらう(のだらう)」と思つてゐると、夜中の十二時頃になつて、バロンバロンといふ声がして、だんだん声が大きくなつて、角兵衛殿の前へ一丈ばつかもある大坊主が出て来ました。 角兵衛殿が「お前は負*17ろん負ろんといふが、負れたかつたら負れろ」と言うて、背中を向けたら化物は負れました。負れた処が重たうて重たうてしてみやうがない。それを負てごんごん家へ帰つて、「嬶々、化物を負て来たが戸をあけれ」といふと、嬶は「俺は心配して戸をあけて待つてゐたが、お前はまア本気に化物を負てこられたかい」といふ。角兵衛殿が上り口の処へ行つて、「そらバロン下りれ」と言うて、背中の大坊主を下したれば、グワサーンといふ大きな音がして、化物は一枚筵一ぱいの金になりました。嬶は「つァーつァー (父の下級語) お前は、こんげん(こんなに) いつぱいこと(沢山)金を持つて来て」というて、魂消*18てしまうた。角兵衛殿も「――化けるものかなア」と言うて、驚いてしまうた。それでそれ、明日んなつて、其話を村の庄屋殿に届けて、金は自分の物になつたといふ事だいの。(帯織 関崎勝次郎氏)
率直な感想としては、他の話を読んでも「ぶる/ばれる」と「たがく」が現代よりも、はるかに日常的に使われる語だという印象があります。方言の縮退にとどまらず、自動車登場以前、かつ農業従事者が中心だった時代には、手で持って運ぶ、という動作が日常的だったことなどもあるのでしょうか。
さて、「越後三条南郷談」が南蒲原ネイティヴの外山さんによって執筆されたのに対して、この「南蒲原郡昔話集」は鹿児島の喜界島出身の岩倉市郎さんによって書かれています。
当初は、柳田がまとめた中の一編とのことで、柳田が門弟を蒲原郡へ調査に派遣したのかと思いましたが、実際には、岩倉さんが独自にまとめたものが、後に柳田の目に止まったようです。
執筆の経緯は、下にPDFを掲げた「新潟県立歴史博物館研究紀要 第2号」(2001)の金田文男氏による「越後・佐渡の民話─ 岩倉市郎と昔話伝承者牧野悦 ─」に詳しいです。
https://core.ac.uk/download/pdf/70372466.pdf
東京に出て新聞社に勤めていた岩倉氏が、折からの体調不良により静養のため、妻の実家である見附町に逗留した折、昭和6年(1931)秋と昭和7年春の2度にわたり現地の昔話を採取したとのこと。
採取対象者は、妻の実家の見附町の他、妻の母の実家である葛巻村、新潟村、今町(以上、全て現在は見附市)、妻の信仰する宗教の教会があったという大面村山王(上記引用の帯織。栄町を経て現・三条市)、さらには会津への入口、秘境、森町村遅場(下田村を経て現・三条市)にまで及びます。
昭和6年採集分を一旦は、文野白駒(ふみのしろま)の変名で「加無波良夜譚(かんばらよばなし)」として昭和7年に出版。7年春採集分は雑誌「昔話研究」に発表した。
これらをまとめたものが、全13編からなる「全国昔話記録」の1冊としてここに掲げた「南蒲原郡昔話集」。
本書の冒頭で柳田が主張するところによれば、方言を使わないと現地で聴いたような感覚(土の香り)を惹起せず、方言だけで書くと他地域の読者に伝わらない。
我々、土着の人間としてはもう少し方言色が強くてもよい気がするが、この点では、鹿児島出身の著者による南蒲原語の聞き取りが奏功し、バランスの取れた表現となっているように思われる。
なお、言葉遣いの他にも、話の展開や表現などについても、なるべく地方の独自性を求めているようで、全国に流布する話の場合、たとえば「桃太郎」などは犬に出会って黍団子の説明をする辺りからは独自性がないと判断されたのか、話の筋だけを紹介して唐突に終わっている。