Beerhouse3営業日誌

ものづくりの街、新潟県三条市でビール屋はじめました

三条金物は三条左衛門起源説(信憑性ゼロ)

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 どうも。新潟県三条市の中心部、「本寺小路」でクラフトビールを中心とした飲食店「Beerhouse³」を、とりあえず何とか営業しております店主いけのです。

 

 図書館に昭和29年(1954)発行の「三条市史資料」という資料集があって、編纂の経緯を知らないのですが、市史編纂の基礎資料とすべく収集されたものかと思います。実際の市史出版は昭和51年(1976)から58年(1983)にかけて行われたので、20年くらい間が空く訳ですけども。

 

 この本に、「伝説と世間話」と題した章があります。今回は「おばりよん」を探し求めるために読んだのですが、結論から言うと「おばりよん」(および類する怪物の話)は載っていませんでした。

 なお、「おばりよん」については、「三条市史」、「大面村史」も確認しましたが収録されていませんでした。どちらも、外山さんの「越後三条郷談」に取材したと思しき同一の内容は多数収録されているのですが。

 

beerhousecubed.hatenablog.com

  

 代わりと言っては何ですが、本書では、次の通り金属加工産業の起源を説明していたので紹介します。

 

三条金物の起り

 阿部貞任が八幡太郎義家に亡され、その残党黒鳥兵衛が越後に侵入し、 下越を荒し廻つている時、早晩三条へも押寄せて 来るにちがいないと、その備えの為にと三条左工門の奥方が地方へ宝物を探しに出られた。然し宝物は思うようには得られ なかつた。その為三条城が黒鳥兵衛に落されてしまつた。その宝物というのは刀剣類の事で、これが不足のために敗けてし まつた。それで領民は金物の大事なことを知つて、それ以来金物類を作ることに精を出すようになった。これが三条に金物 の起った原因である。

 

 まあ、1ミリも信憑性のない「伝説」でしかないのですが。

 

 これが、その10年後に図書館長、渡辺行一氏が「昭和に入ってからできたもんですよ。おそらく誰か頭のよい人がね、頭の良い年寄りが、誰かかはわからんが三条左衛門に結びつけた」と評しているエピソードです。

beerhousecubed.hatenablog.com

 

 

 このエピソードを「歴史」として評価するとき、価値があるのは以下の4点です。

  1.  安倍貞任源義家は東日本の伝説で人気があった
  2.  黒鳥兵衛の伝説は三条でも人気があった
  3.  三条左衛門の伝説は人気があった
  4.  昭和29年時点で「大谷清兵衛説」は存在しない

 

  1番目。安倍貞任(c.1019-1062)と源義家(1039-1106)。この2人に関する伝説は、東北日本の各地に残っているようです。

 平家落人伝説、源義経静御前みたいな。明智光秀が実は生き延びたとか、大坂夏の陣の後の豊臣秀頼とか。

 源義家は京都の石清水八幡宮元服したので八幡太郎と呼ばれ、鎌倉幕府を開いた源頼朝室町幕府を開いた足利尊氏の先祖に当たるため、全国の武家から戦神として崇敬されて八幡神社が全国に勧請されています。

 おそらくは、この八幡宮を全国に作る流れで、義家が実際に当地に来た(陸奥に赴く途中で/京都に帰る途中で)、いや敵の安倍貞任だ、いや、その配下だ、みたいな話と、「昔、ここに偉い侍がやってきて…で、その侍とは誰だ?」という話が結びついた結果なのですかね。

 どのようにして、八幡太郎安倍貞任伝説が全国に広がったのか、とかは面白いテーマだと思います。調べないけど。

 

 

 2番目。

 安倍貞任の配下の黒鳥兵衛が落ちてきて、越後各地で狼藉を働いた、という「伝説」は西蒲原郡を中心に広く残っていたようです。

 今も新潟市西区に黒鳥という地名が残っています。ここで兵衛が討たれたので黒鳥と呼ぶのだ、とか。まあ、普通、地名は逆でここを拠点にしたから黒鳥を名乗る武士がいた、という方がまだ信憑性がありますが。

 黒鳥は、高速道路とバイパスの間、中ノ口川と西川の間、昔は中ノ口川信濃川に合流せず、こちらを流れて西川に合流していたのかな、という旧河道に沿って蛇行した縦長の集落。形状からして古そうな集落ではあります。

 

 

 戦国時代の中条氏の乱とかを見ても、阿賀野川以北の勢力が阿賀野川信濃川を超えて蒲原郡まで攻めてくる(おそらくは食糧確保のために)、という話は中世越後では度々起きていたようなので、それらの史実が伝説化されたものかと思われます。

 

 

  3番目、三条左衛門。

 黒鳥兵衛と同じく、江戸時代くらいの人たちは、そういう中世の伝説に思いを馳せたのでしょう。テレビの普及による方言の消失と軌を一にするかのように、すっかり忘れ去られて、今は三条左衛門も六角凧の絵柄に残るくらいですが。

 黒鳥兵衛も三条左衛門も、江戸時代くらいの伝説には出てくるのですが、実際に活動した平安時代の史料には出て来ないようです。もっとも越後の田舎での話なので、都の偉い人たちの耳に届かなかった/記録として残す価値がないと判断されただけかもしれず、存在しなかった証明にはなりません。が、でも、まあ、三条左衛門のモデルになった人物がいたとしても、三条左衛門自体は実在した可能性は低そう。

 

 そもそも、地名「三条」が確認できるのは古くても鎌倉後期で、安倍貞任の時代にこの辺りは「三条」とは呼ばれていないのですよね。

 

 

  4番目、昭和29年時点では大谷清兵衛説は出て来ない。

 上に引用した過去記事のとおり、この三条左衛門説を採集した渡辺行一氏が昭和39年に三条左衛門説を否定して、新たに提唱したのが大谷清兵衛説ですが(ただし、渡辺氏の当時の主張は三条周辺の村落への広がりで三条そのものではない)、そのうち明らかにされるであろうという証拠を、2021年現在、いけのは確認できていません。

 

 

 なお、前九年の役に関連した越後における武家の動向としては、史実として、越後平氏、城(じょう)氏の存在があります。

 安倍貞任の父、安倍頼時に対して挙兵した陸奥守を支援するため、出羽城介(でわじょうのすけ)の任にあった平繁茂(繁成)も援軍を差し向けるものの敗走*1、その長男、貞茂(貞成)が城太郎(城介の長男)と呼ばれて、越後に土着したのが城氏のはじまり。時代的には安倍貞任と同世代でしょうか。

 この城氏の子孫は、後の保元の乱源平合戦(治承寿永の乱)においても平家側で動向が確認されますが、越後における活動の実態はあまり資料がなく、実際には阿賀野川以北(揚北/あがきた)が支配の中心だったようです。最終的には鎌倉幕府成立後に反乱を企てて(建仁の乱)、鎮圧されてしまいます。

 南北朝時代から戦国時代にかけて越後で台頭する領主の中に、城氏の末裔を名乗る者いるようですが、詳細は不明です。

ja.wikipedia.org

 

 

 ところで、上記の越後平氏の祖、平繁茂の父で「今昔物語」にも登場する平惟茂をWikipediaで見ると、阿賀町に伝わる「御前ヶ鼻(淵)」という奥さんが身投げした伝説が載ってるんですけど、これ、三条左衛門にも全く同じ話があるんですよね。

 夫の死期が迫る中、会いに行こうとしたが間に合わないことを悲観して身を投げた、という。

 なんでしょうね、昔、あそこで身投げした人があった(だから危険なので近づくな)という話は各所にあって、それが昔の貴人に結び付けられる、ということでしょうかね。

ja.wikipedia.org

 

*1:代わって陸奥源頼義が派遣されて前九年の役に至る