Beerhouse³ 営業日誌

ものづくりの街、新潟県三条市でビール屋やってます

奥会津の三条集落


 はい、ビールと郷土史好きのみなさん、こんにちは、新潟県三条市クラフトビールの店をやってる、いけのです。

 

 今日は、三条市から山を越えた向こう側、福島県の奥会津、金山町にかつて「三条」と呼ばれる集落があったらしいよ、という話。

 

 これを見かけたのは、「三条市史」編纂に先立って、ひとまず当時の資料を集成した昭和29年の「三条市史資料」です。

 当時の図書館職員、渡辺泰佑氏が担当された三条の地名由来に関する項で諸説を取り上げる中で、次のような記述があるのです。

 

新潟県福島県の境の小さい部落にも三条の地名が残っているに対し、五万分地図守門の右続き、只見に三条部落のあるを田中照男氏より聞き照会したるに、昭和二十五年十二月三日、福島県大沼郡川口村本名村組合役場、渡辺利一郎氏より左記の回答に接したのである。


「御照会の件三条部落は本名村の字で昔から十二戸を有し、本名村を距る一里半の山山の奥地に位し、民情、言葉等本村と異り、最近迄は緑組等も、他と絶対に結ばない様な状態でありました。
三条に関する伝説については確たるものはありませんが、京都の落人だと云ふ説と、御地三条から移住したと云う説とありますが、何れも決定的ではありません。然し言葉の「アクセント」などから考えると、当地方土着でないと云う事だけは間違ない様です。どの位古いかと云う事も明瞭ではありません。現敢えず簡単ながら御返事申上ておきます。 以上

 

なお本資料によれば三条の起原は、三条左衛門とは何等関係がないことになっており、年代は約九百十年前で、最後は一人の重臣と共に未だ世に出ないで福島県境で歿していられる、とある。

三条市史資料 p.92)

 

 この本名(ほんな)村は昭和の合併で現在の金山町に組み込まれています。

 

 金山町本名三条をGoogle Mapで見ると、今やすっかり山…。集落の痕跡を探すのも難しい…。

 

 

 スクロールアウトして、縮尺を小さくしていると、粟ヶ岳と守門の間、まさに我らが越後三条から真東に向かった地点ではあるので、何らかかかわりがあっても不思議ではない位置ではありますが。

 

 

さらに、ぐぐって出てきたのは、こちらの記事。タイトルに「2」とありますが、記事1については見つけたよ、という報告だけで内容は、この2のみで完結しているようです。

katin0216.seesaa.net

 

上の記事で大幅に引用している元のブログ記事は、こちら。

tabilogue2.exblog.jp

 

 

平家落人伝説のある集落だが、地域の伝承では、平家ではない他の武士が落ちてきた、との指摘。

 

「越後に砦を築いていた豪族で「三條掃部頭兼任 サンジョウカモンノカミカネトウ」という人がいました。その一子、道明は京に上って宮仕えをしていましたが、、、これは源頼義の時代だと聞いております。」


*注 前九年の役(1051~1062。12年にわたる奥州安倍一族との戦い)

 

まるで 郷土史家に歴史談義を聴いているような気分になり、ノートにペンを走らせました。

 

「ところが どういう事情があったのか細かいことは分かりませんが、京を追われる身となり、止む無く越後に帰ることとなりました。しかし何かの事情で敵と狙われることになったらしく、ついに三条にもいられなくなり行方をくらましてしまったのです。」

 

源頼義は11世紀の人。源氏発展の礎を築いた八幡太郎義家の父親で、要するに前九年の役後三年の役、安部貞任とかと同時代の人で、これは三条市に伝わる三条左衛門定明と同時代、ということになります。

 

掃部頭と左衛門尉。兼任と定明。役職と下の名前が違いますが。息子の名前が道明で「明」の字が一応一致しているのは偶然か、意味があるのか。

 

ただ、東日本の伝説をみるときに気を付けるべきこととして、前九年の役後三年の役に関する伝説については、この戦役が源氏、東国武士の発展の基礎となったことから、東日本各地域の伝説の題材として源義家や安部貞任、あるいはそれぞれの配下の武士に求めがちなので、あまり意味のある言及ではないように思います。

桃太郎とか浦島太郎とかと同じ「お話」としての価値はあると思いますが。

「昔々あるところに」の「昔々」に具体性を与えるために、とりあえず選んできている感じが否めません。

 

 

上のブログは金山町の広報紙で郷土史の連載をした加藤文弥氏の文章を引用していますが、国立国会図書館デジタルコレクションで「三条掃部頭」で検索すると唯一(!)ヒットしたのが、その加藤さんの著書「ふるさとの夜話」でした。

 

dl.ndl.go.jp

 

なお、「三条兼任」で検索すると、京都の三条や法令条文の三条に、役職の「ケンニン」を合わせたものが膨大にヒットするため探せず。

 

著者の加藤さんは明治40年生まれで学校教員の傍ら、郷土史を研究され、「金山町史」の編纂に関与、この本は昭和45年から金山町の広報紙に連載した原稿を大幅に改稿して昭和57年に1冊の本としてマトメたもの、とのことです。なので、読みやすくなっている他は、言及している内容は上記ブログでの引用とほぼ同じでした。

 

執筆時点で三条集落は11戸のうち既に5戸が空き家になり、町の支援による集団移転を検討中とのこと。

 

加藤さんは三条集落の言葉や習俗から、山の中を移動しながら狩猟を行う「マタギ」の一団が時代の変化の中で定着したものと推定しています。

 

ja.wikipedia.org

 

なお、同書では巻頭カラーページに、上記ブログでも引用されている写真のオリジナルとおぼしき、三条集落の遠景が金山町の典型的な山間の集落の姿として掲載されています。川沿いの道を挟んで茅葺屋根の数軒の家が見えることから、集落があったのは、上記のGoogle Mapで言うと、南側の境界付近だったのでしょうか。

 

 

改めて整理すると、奥会津の三条集落と我々三条市の関係については、次の4つの可能性があります。

  1. まったく偶然に同じ名前になった
  2. 何らかのルーツを共有している
  3. 会津の三条が越後・三条の地名の起源
  4. 越後・三条から流れていった一団が奥会津・三条の起源

 

このうち、3については小さな集落なので、あまり考えなくてよさそうです。

 

2番、4番で貴種流離譚や落人伝説を採用する場合、前述のとおり、両者が主張する前九年・後三年の役の可能性は低く、他に推定される時期としては、

  1. 源平合戦の平家落人
  2. 南北朝期の落人
  3. 戦国期から江戸初期の落人

などの可能性があるでしょうか。

 

 

1番はあんまり一般に知られていないんですが、源平合戦のときの越後の有力者は平氏の一族、城(じょう)氏です。信濃で挙兵した木曽義仲を迎撃するため川中島*1に進軍し、横田河原で戦う話が「平家物語」にも記載されています。結果は、木曽義仲が勝ち、ここから木曽軍は北陸に進んで、倶利伽羅峠の戦いを経て上洛を果たすことになる訳ですが。

 

当時の城氏は白河荘*2に拠点を置いて、阿賀野川信濃川の水運を支配したようで、川中島にも越後の他、出羽南部、会津四郡の兵を率いて出撃しています。城氏は川中島での敗戦後、梶原景時の仲介により源頼朝に臣従しますが、その梶原景時が政変で滅ばされたことにより、謀反を起こすものの(建仁の乱)、鎮圧されて歴史から消えていきます。

 

この滅亡の中で一部が山中に隠れ住んだ可能性はあるかもしれません。なお、当時の資料ではまだ越後に地名「三条」は確認できません。

 

ちなみに城氏の起源については、前九年の役の緒戦で陸奥守の藤原登任(なりとう)とともに安倍氏と戦って敗れた秋田城介(じょうのすけ)/出羽城介、平繁茂(しげもち)の長男が城太郎を名乗ったのが始まりと言われています。ついでに、この藤原登任の邸宅は京都の三条にあったらしいです。

 

前九年の役にかかわる伝説としては、この城氏の起源が元になっている感じもしますが、どうなんでしょうね。ちなみに歴史的仮名遣いだと城は「じやう」、条は「でう」です。当時の方言の状況は不明ですが*3

 

 

次。地名「三条」が世の中に登場した後、南北朝期の可能性。

鎌倉時代の終わりに越後に影響力を持っていたのは新田義貞で、下田の八木神社に新田父子像が祀られていることからも分かるように、新田義貞の敗死後、息子の新田義宗を中心とする南朝側残党は越後や信濃の山に籠って関東方面への反撃の機会を探った事実はあります。その一部が奥会津に流れていっても不思議はありません。ただし、この時期に三条と呼ばれる集団がいたかは不明です。

 

 

戦国時代の三条に三条を名乗る武将は確認できませんが、三条周辺に在住した一団は「三条衆」と呼ばれたようです。越後の場合、南北朝時代から戦国時代に至るまで、わりと平和な時代は短く、紛争が頻発しているため、敗残兵や土地から離散する農民は存在しそうです。

また、上杉景勝が越後から会津に移封された際、さらに江戸時代に入って米沢に移った際、それぞれ上杉家にはついて行かず、越後や会津周辺に残った家臣がいるようです。

 

関ケ原の合戦は、徳川家康による上杉景勝討伐を端緒として始まりますが、この際、上杉側は越後国内に残った旧臣たちと呼応して越後に攻め入っており、上杉氏に代わって越後を支配していた堀氏がこれを鎮圧するため、三条付近でも戦闘が起きています(上杉遺民一揆)。

 

これらの越後と会津の間を移動していた集団の中から、マタギとして狩猟生活を行い、やがて奥会津に土着した人々が三条を名乗った可能性はあるかもしれません。

 

 

もちろん、本当に偶然、山を挟んで両側に同じ名前の地名が生まれただけ、という可能性もある訳ですが。

 

 

越後・三条の由来については、下記の記事をだいぶ前に書いています。

 

beerhousecubed.hatenablog.com

 

 

なお、今回のヘッダ画像は、TrinArt先生に久しぶりに描いてもらいました。4月末からStable Diffusionを無料版のGoogle Colab上で動かすことが難しくなったため。お題は、「日本の山奥にある忘れられた集落を通る道」、です。TrinArt先生は、風景画を描かせてもアニメの背景っぽくなりがち。

ai-novel.com

 

 

【2023.06.12追記】

図書館で「角川日本地名辞典」を読んで来たら、残念ながら福島県に「三条」の項はなかったのだけど、本名村の項に少し三条への言及がありました。

 

はじめ会津領、寛永20年からは南山御蔵入領。 大石組に属す。 村高は、文禄3年の蒲生高目録では横田村に包含記載されていると思われ本村は不詳。しかしのちの当村の端村となる三条村はもと西条村と呼ばれ、 蒲生高目録には西条として23石余が見える。文化15年の村日記 (県史10下) および 「天保郷帳」 「旧高旧領」では320石余。 小名に舟戸・夏井、端村に湯倉・三条がある。 

 

文禄3年だと1594年、上杉氏入封前の蒲生氏郷の時代で、いわゆる太閤検地の一環でしょうか。関ケ原より前ですね。

 

三条が元々、西条と呼ばれていて後に訛って三条となったのか、当時から三条と呼んでいたのが誤って西条と記載されたのか、あるいは別の村を取り違えているのか不明ですが、本当に西条村と呼ばれていた村が三条になったのだとすると、興味深い指摘です。なぜなら、越後三条も本来の村落の中心であった保内、大崎、月岡から見て西側の新興地であるのは間違いないので。

 

*1:後の上杉謙信武田信玄と同じように

*2:現在の阿賀野市周辺

*3:新潟における「い」と「え」の混乱はかなり古くからある