Beerhouse3営業日誌

ものづくりの街、新潟県三条市でビール屋はじめました

吉野源三郎「君たちはどう生きるか」を読む

 どうも。新潟県三条市の中心部、「本寺小路」でクラフトビールを中心とした飲食店「Beerhouse3」を、とりあえず何とか営業しております店主いけのです。

 

 ビールと全然、関係ありませんが、本の紹介。

 

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

 

 

 旧制中学二年生、15歳のコペル君が、銀行の重役だった父親を若くして亡くした後、母親の弟で大学を出て間もない「叔父さん」から父親代わりに色々と相談に乗ってもらいながら、学校での経験を通じて、社会の成り立ちや、その中での人としてのあるべき姿を考えていく、という小説。

 

 これは哲学書ですよ。何しろ、岩波の青ですし。

 

 ただ、哲学の本と言っても、カントだとか、ヘーゲル、あるいはデリダドゥルーズがどう言ったとか、そういう墓の下に眠る過去の人間の言葉を並べ立てるだけの、薄っぺらい本とは違います。

 この本の中でも、過去の先人たちの経験を学問として身に着けることで、人類全体をより前に推し進めることができるのだ、という主張はありますが、それと同時に、この本では、あくまでも個人的な体験の重要性を説きます。

 

 むろん昔から、こういう事について、深い智慧のこもった言葉を残しておいてくれた、偉い哲学者や坊さんはたくさんある。…略…しかし、それにしても最後の鍵は、――コペル君、やっぱり君なのだ。君自身のほかにはないのだ。君自身が生きて見て、そこで感じたさまざまな思いをもとにして、はじめて、そういう偉い人たちの言葉の真実も理解することが出来るのだ。…略…(p.53)

 

 もちろん、コペル君の名前の由来は、地動説を唱えたコペルニクスに倣っていて、社会全体の動きの中で自分の立場を観察する必要がある、という姿勢は一貫しており、この辺りの主観と客観のバランス感覚も哲学書として優れている個所ではないかと思われます。

 

 この本の存在を、寡聞にしてごく最近まで知らなかったのですが、コペル君と同じ十五歳でリアルにこの本を読める人は幸せなことと思います。もう少し早い小学校高学年くらいでも十分読める内容ではないかとも思いますが。

 一方、前述のとおり、本を読んで知識として知っていても実感を伴わなければ意味がない、という点では、実際には主人公よりももう少し遅い十代後半で読んだ方が頭でっかちにならず幸せなのかもしれません。

 

 十五歳で読むには難しいことがあるとすれば、書かれた時代が少し古い、ということです。

 巻末の吉野本人の解説によれば、元々、1935年に山本有三の手により新潮社から「日本少国民文庫」が全16巻で刊行開始され、その中で倫理をテーマとして山本本人が手掛けるはずであった本作については、山本の死去により、本来、哲学者の吉野が代わって担当し、1937年に出版された、とのこと。

 戦後には、少年小説という企図に沿って、版を改めて、時代に即した形で文章を変更して再発されたものの、この岩波の青は、オリジナルの1937年版を底本としているそうです。

 

 したがって1つには、まず古い小説などに馴染んでいない若い人には言葉遣いなどが少し違和感があるかもしれません。

 

 第2に、太平洋戦争開戦直前、日中戦争真っ只中、という不穏な空気が物語の背景としても描かれており、これも歴史に関心がない人にはピンと来ないかもしれません。

 とは言え、これは近年の中東、北朝鮮南シナ海の不穏な空気を思えば、改めて考えておくべき空気感にも思えます。反戦反戦と九官鳥のように繰り返すだけの平和主義ではなく、世の中の動きに対して、当時の知識人はどのように向き合ったかを考え、今、わたしたちがどのように向き合うべきかを考える一助にはなるでしょう。

 

 第3に、明治維新によって武家社会が崩壊したものの、下級武士と町人の不満を吸収する新しい階級社会、エリート主義としての学問(と資本)が機能していた時代、というのが、戦後の1億総中流社会で生まれ育った若い人には中々、実感が沸かないかもしれません。

 ただ、個人的には、かなり学問を軽視し、実務を尊ぶ地域の公立小中学校に通った(というか他に選択肢がなかった)後で、それなりに偏差値の高い大学に進学した身としては、残念ながら、現代の日本においても、そこに明かな階級…とは違うかもしれませんが、文化の断絶は存在しています。そして、おそらくバブル崩壊後のこの20年で、その断絶は広がる気配を見せており、この視点を若い人たち、特に、若くしてこの本を読むような、知的にレベルが高い人たちが知っておいて損はないだろう、と思います。

 あるいは、巻末に附された解説で丸山眞男が指摘するように、世界規模で物事をみたとき、日本人に生まれたことそのものが、ある種の貴族階級に所属している、とも言えるわけです。

 

 若くしてこの本を読める人たちを羨ましく思う反面、この本は自分自身の実体験の重要性を説くものであって、既に人生を十分に生きてきた我々にも、改めて自分の生き方を見直させる機会となる力があります。

 

 王位を奪われた国王以外に、誰が、国王でないことを不幸に感じる者があろう。(p.249)

 

 とパスカルを引く叔父さんは、続けて次のようにコペル君に諭します。

 

 人間が、元来、何が正しいかを知り、それに基づいて自分の行動を自分で決定する力を持っているのでなかったら、自分のしてしまったことについて反省し、その誤りを悔いるということは、およそ無意味なことではないか。

 僕たちが、悔恨の思いに打たれるというのは、自分はそうでなく行動することも出来たのに――、と考えるからだ。それだけの能力が自分にあったのに――、と考えるからだ。正しい理性の声に従って行動するだけの力が、もし僕たちにないのだったら、何で悔恨の苦しみなんか味わうことがあろう。(p.255)

 

 いや、しかし、年を取ってから読んでも十分、価値があるとは書きつつも、もはや自分が叔父さんを飛び越えて、亡くなったお父さんの、十五歳の息子がいてもおかしくない年齢だ、という点については、戦慄するほかにないわけですが…。

 

  なお、この本の存在を知ったキッカケは、書籍紹介サイトhonzで先日、マンガ版が発売された、という紹介記事を読んだことでした。マンガ版は読んでおりませんが、文章は敷居が高そうだ、ということであれば、こちらも。

 

honz.jp

漫画 君たちはどう生きるか

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