どうも。新潟県三条市の中心部、「本寺小路」でクラフトビールを中心とした飲食店「Beerhouse³」を、とりあえず何とか営業しております店主いけのです。
当店が店を構える燕三条地域は金属加工が盛んな街なんですけども、そのルーツはどこにあるの…? となると、詳しいことはよく分かっていません。
一応、地元の歴史好きや産業通の人たちの間では、
江戸時代の初期、三条城が城主不在となって出雲崎代官所の支配に置かれた際、時の出雲崎代官、大谷清兵衛(おおたに・せいべえ*1)が河川の氾濫で困窮する貧農たちを救済するため、江戸から和釘づくり職人を招聘して、以降、農閑期の副業として奨励した。
みたいな根拠のない「伝説」が流布しています。
で、3年前に、この「伝説」の信憑性は9つの点から大変疑わしい、という話を書いたのですが、その後、深掘りしないまま放置しておりました。
が、先月の「燕三条工場の祭典」に際して、また公式に大谷清兵衛の話が出てきたりしたので、ここいらで、また、ちょこっと調べておこうか、という話です。
今回は、主に「で、実際、大谷清兵衛って誰で、本当に和釘を奨励したなんて記録は残っているの…?」という点を中心に。
1 幕府の記録
まず、大谷清兵衛は天領=幕府直轄地の代官ですので、江戸幕府に仕える幕臣。幕府草創期の幕臣の事績を調べる際には、幕府側の公式記録として、次のようなものがあるようです。
・太田資宗他 「寛永諸家系図伝」 寛永20(1643)年完成
・堀田正敦他 「寛政重修諸家譜」 文化9(1812)年完成
・堀田正敦他 「干城録」 天保6(1835)年完成
・根岸衛奮 「柳営補任」 安政5(1858)年完成
上の3つは系譜で、最後のは任官記録。この他、現代に編纂されたものとして、次のもの。
以上5冊は、下記の国立国会図書館のホームページの調べ方案内から抽出したのですが、ここに記載がなかった新しい書籍として、次のものを県立図書館で発見しました。
・村上直他 「徳川幕府全代官人名辞典」(東京堂出版 2015)
順に見て行きます。
1.1 寛永諸家系図伝
大谷清兵衛と目される大谷定利が存命中の寛永年間に編纂された系譜集。wikipedia
新潟県立図書館の貴重資料を収蔵する開架書庫は冬季閉鎖となっており*2、それが11月から! ということで、図書館で読むことはできませんでしたが、国立公文書館のデジタルアーカイブをウェブで閲覧可能です。
系統不明の諸家を記述する「未勘」の項、下記リンクの45枚目に大谷氏も所収。
崩し字で読めない…。
大谷
重次 清右衛門 生国伊勢 法名**
定次 清兵衛 生国遠江
大権現*3と***
定利 清兵衛 生国相模
台徳院殿***
将軍家*****
家乃紋 木瓜
とは言え、大した事績は触れてなさそう。
1.2 寛政重修諸家譜
寛永から150年後に編纂された幕府直轄編纂による系譜集。wikipedia
こちらは昭和40年に続群書類従完成会から出版された活字本を県立図書館で閲覧できました。刊本は旧字旧仮名、漢字のみ新字で引用。
各所で「今の呈譜に」とあるのは、編纂に当たって各家から提出させた系譜類、という意味です。
巻第千二百七
未勘
大谷
今の呈譜に、元藤原氏にして味岡を称す。市平定之はじめ遠江国に住し、岡崎にをいて東照宮につかへたてまつり、天正元年九月武田勝頼遠江国に発向し、すでに軍を旋さんとするにをよび、定之ひそかに新坂切通にまちうけ、鳥銃をもつてうちとめむとせしに露顕して甲兵のためにうたる。ここにをいて男清兵衛重利孤となりしかば其母某氏処士大谷八郎兵衛某に再嫁するにをよび、これにしたがひ、のち大谷が養子となり、村上源氏を冒し大谷とあらたむ。これ寛永系図二代の清兵衛定次と実名を異にするのみにてはたして同人たるべしといへども、其父にいたりては養実ともにはなはだおなじからず、うたがふべきが故、初代のごときはもつぱら寛永系図にしたがひてしるし、家伝の異なるものをばここに収録するのみ。
重次
清右衛門 法名円斎
定次
清兵衛 今の呈譜に、重利に作る。母は某氏。
天正十五年めされて東照宮につかへたてまつり、稟米二百俵をたまひ、十八年相模国の御代官となり、寛永二年七月十四日死す。年六十三。法名順香。今の呈譜泰路 四谷の全勝寺に葬る。後定頼にいたるまで葬地とす。
定利
清兵衛 今の呈譜、定次に作る。母は某氏。
寛永二年遺跡を継、四年御代官となり、十七年五月二十一日さきに本城普請の事にあづかりしにより、黃金を賜ふ。慶安四年銅奉行に転じ、のち務を辞し、小普請となり、万治元年五月三日死す。法名大境。
以下略
定次が家康に召し抱えられた天正十五(1587)年は、家康が居城を浜松から駿府に移す前後。相模で代官になる天正十八(1590)年は、北条氏が滅亡して家康が関東に入る頃です。寛永二(1625)年に63歳で没したことから逆算すると、このころ20代後半。
定次、定利の親子ともに代官を務めたことは分かりますが、三条で産業振興をやったかどうか以前に、出雲崎を担当したかすら不明。
定利は、江戸城の普請、その後、銅奉行を務めたことから、建築・金属に絡むと言えば絡みますが、これは年次から言って、出雲崎代官を務めた後の話なので。順番が逆なら、昔知り合った職人を三条に呼ぶ、とか、まだあるかもしれませんが。
なお、定利の後も養子を取りながら家系が続いていることが確認できます。また累代の墓所となっている四谷の全勝寺も現存しているようです。
以下、国立国会図書館87コマで楷書体の手書本を閲覧できます。
国立公文書館には崩し字版も。4ページめから。
1.3 干城録
寛政譜編纂のために各家に提出させた系図類から、本編に漏れた幕府草創期の幕臣の事績を集めたもの。
こちらも図書館では閲覧できず、国立公文書館のデジタルアーカイブから崩し字(読めない)のものを。
でも、寛政譜を読んだ後だと、結構、崩し字も読めて、特に、本編で漏れた目新しい事項はなさそう。
1.4 柳営補任
今回は図書館で閲覧できませんでした。ウェブ上のデジタルデータも確認できていません。
1.5 江戸幕府代官履歴辞典
こちらはあくまで文章ではなくデータ集で、寛政譜をベースに定次、定利が項立てされていました。
大谷清兵衛定利が寛永4(1627)年から翌寛永5(1628)年まで出雲崎代官を務め、備考として「出張・三条」との記載があります。
この記述を信じるなら、寛政譜で清兵衛が遺跡を継いだのが寛永2年、代官に任じられたのが4年とあるので、代官として最初の任地が出雲崎、という可能性があります。
ただし、この本では単に事項を羅列しているだけで、その典拠については記載がありません。
1.6 徳川幕府全代官人名辞典
上の代官履歴辞典の編纂者も名を連ねる辞典で、こちらは文章による紹介があります。
大谷定利 おおたにさだとし (生年不詳~万治元年一六五八)
諱は定次とも。通称清兵衛。父は代官大谷定次(重利)、母は不詳。寛永二年(一六二五)七月十四日家督を継ぎ、同四年より越後国出雲崎陣屋において越後・信濃国六万石を代官乙幡重行と立会支配し、同国三条に出張陣屋をおく。三条で定利は、和釘の生産を奨励したため、これが三条金物へ発展したともいわれ、このような物資の流通を取締るために、同四年に同国蒲原郡栗林村に口留番所をおいたという。同六年以降、武蔵国川越領の代官となる。同十七年五月二十一日、先に江戸城本城普請のことを務めたため黄金を賜う。慶安四年(一六五一)銅奉行に転じ、数年後病免する。その後、本丸普請にととなもない破損奉行を務める。万治元年(一六五八)五月三日死去、年齢は不詳。蔵米二〇〇俵。室は不詳。 (森朋)
【典拠・参考文献】『寛政譜』第十八・二九四頁、「諸家系譜」、「略譜」、『干城録』、『出雲崎町史』資料編I・通史編(一九八八年)、 『代官履歴』
お、かなり詳しい!
ただし、出雲崎を立会支配したこと、三条に陣屋を置いたこと、懸案の和釘の生産奨励、栗林に陣屋を番所を置いたこと、川越に転じたことなどは、寛政譜に記載がなく、出典が不明です。
典拠・参考文献で「寛政譜」の後に「諸家系譜」、「略譜」とあるのは、寛政譜の本編とは別に収集した資料編のようなものがあるようですが、今回、確認できていません。
「干城録」と「代官履歴」は上述のとおり。
となると、次はやはり出雲崎代官所の本丸、出雲崎町の「出雲崎町史」を見る必要がありそうです。
場合によっては、川越に転じたということなので、そちらも当たってみる価値があるかもしれません。
ちなみに父親の定次については、北条氏から徳川支配に代わる過程で代官を務めた時代の文書が相当残っていて、研究されているようです。
また、さらっと書いてありますが、出雲崎代官は大谷一人ではなく、乙幡との2人体制、というのも注目したいところです。両者の役割分担などはあったのか。
1.7 今回のまとめ
江戸時代初期、三条が出雲崎代官所の支配下に置かれていた時代に出雲崎代官を務めた可能性がある大谷清兵衛とは、大谷定利。
出雲崎代官への就任は幕府公式資料では確認できず。その後、江戸城普請役や銅奉行を務めた記録がある。
大谷が出雲崎代官だった時代には、乙幡重行なる代官もいたらしいが、今回は詳細は不明。
今回はここまで。次回、出雲崎町史を当たります。