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どうも。新潟県三条市の中心部、「本寺小路」でクラフトビールを中心とした飲食店「Beerhouse3」を、とりあえず何とか営業しております店主いけのです。論理的思考は強い方だと思います。
…と書き出しておいて恐縮ですが、この文章は思い付きだけで書いているので、論理構成がグダグダであります。最初に謝っておきます。
さて。今日、久しぶりに車を出したら、ガソリンの値段が結構、上がってて驚いた。で、ガソリンの値段が大きく動いたときに、いつも思い出すのは、1円安いガソリンスタンドにわざわざ行く人の話。
もっとも、これ、たとえば、通勤途中で、家に近いスタンドと会社に近いスタンド、あるいは道中の幹線道路沿いで値段が違う場合、とかだったら、別に安いところで入れたらいいと思います。
ここで俎上に載せるのは、そうではなく、わざわざ給油のためだけに行く価値があるかどうか、という話。
で、2016年に1番売れた車はプリウスらしいので、プリウスを例に出して考える。ハイブリッド以外だと、この問題を考えるに当たっては、シエンタらしいですけど、大きな差はないんじゃないだろか。
トヨタ・プリウスの主要諸元(スペック)。
カタログ値での燃費が37.2km/Lで、燃料タンク容量が43L。
まあ、実際にはカタログ値よりは燃費が落ちるんでしょうし、一方で燃料タンク容量はあくまでタンクの容量で、実際には給油口からエンジンまでの配管部分にもガソリンは充填できるんで、ここでは計算を簡単にするため、燃費40km/L、容量50Lとしましょうか*1。
燃料タンク50Lで、今日の新潟県内レギュラーガソリン、120円くらいでしたが、隣町では、1円安くて119円だとして、満タンで給油する場合、
最寄り 50L × 120円/L = 6,000円
隣町 50L × 119円/L = 5,950円
もうね、この時点で「あらあら」っつう話なんですが、行きがかり上、最後までやります。
隣町まで3km離れているとする。この間の消費ガソリン量は、
3km ÷ 40km/L = 0.075L
この消費したガソリン分の価格は
0.075L × 119円/L = 8.925円
つまり、1回の給油で約9円のロスで、50円儲かる、差引41円の得、という計算。
うむ。プリウスのカタログ値が意外と優秀なので、思ったよりインパクトのない数字になってしまいました。
…が、実際、隣町まで移動するに負担するコストってガソリン代だけじゃないよね、というのが本題。
3km離れたスタンドまで移動するのに掛かる時間。ノンストップでスムーズに時速60km/hで移動できたとして*2
3km ÷ 60km/h = 0.05h (= 3min)
往復で、0.05 × 2 = 0.1h (= 6min)
2017年1月現在の新潟県の最低賃金753円を使って、あなたがムダにした時間を金銭価値に換算すると
753円/h × 0.1h = 75.3円
ガソリン代で41円得したけれど、そのために少なくとも75円分の時間を浪費している、ということ。
ちなみに、最低賃金以外の数字で計算すると、2015年の新潟県の男性平均年収は、月170時間労働で、約450万円ということなので、
新潟県の平均年収や生涯賃金・年齢別年収推移・職業別年収|年収ガイド
450万円/年 ÷ (12月/年 × 170h/月) ≒ 2,200円/h
ので、6分使うと、約220円ですね。
あと、大抵、こういうスタンドは人気があってすごく混んでいるので、行列待ちの間の時間と、アイドリング中のガソリン消費も発生する訳です。
まあ、ものすごくヒマだったり、出かけるついでだったり、あるいは給油に出かける旅そのものを楽しめる、とかだったら、その旅程そのものに、220円以上の価値があるのかもしれませんが。
いや、別に、これを通じて、ロジカルに考えることが大事だよねって話をしたい訳じゃないんですよ。
だって、もしも、こんなことが気になって、チマチマとした計算をしていたら、その計算している時間自体が、むしろムダだし。自分の場合は、興味本位で、ある種の思考実験という楽しみのために計算しているので、ロスではないですが、普通の人の日常生活の中で、イチイチ計算していたらね。
大事なことは、人間てロジカルな生き物に見えて、実は全然、そんなことないよね、ってことを知っておくこと、ではないかなと思います。
たとえば、他人を説得して動かす場合に、相手はそんなにロジカルに考えて生きていない。
あるいは、一見理にかなった、もっともらしい他人の意見を聞いて自分が行動に移そうというとき、それって本当にロジカルな判断なんだろうか、それとも興味本位の行動なのか、くらいは考えてみてもいいかもしれない、と思う次第であります。
世俗の人間は心を苦しめて、是非の対立を一つにしようとして、その対立している二つのものが本当は同じであるということを知らない。
これを朝三(ちょうさん)というのだ。
何を朝三と言うのだろうか。
ある所に、狙公(そこう)という猿使いの親方がいて猿に橡*3の実を与えた。朝に三つ、夕方に四つずつやろうと言うと、大勢の猿がみんな怒った。それならば、朝は四つ、夕方に三つずつやろうと言うと、大勢の猿はみんな喜んだのである。『朝三暮四(ちょうさんぼし)』も『朝四暮三』も名前(言葉)は変わっても実際の本質(合計7つの橡の実)は何も変わっていないのだが、猿たちは喜怒の感情を無意味に用いている。
ただ(すべてが同じという万物斉同の)是に拠るだけで良いのに。
だから聖人は、こういった問題を調和するのに是非の統一をもって対峙し、天の絶対的一の調和の世界で安住するのだ。これを、矛盾するものが二つとも同時に成り立つ『両行(りょうこう)』というのである。
荘子「斉物論第二」
サルの例の部分以外は、現代語訳でも意味が取りづらいですが、「人間だってサルのことを笑えないよね。苦労から説き離れるためには、あれこれ悩むのをやめて、目の前の現実をありのままに受け入れるしかないんだよ」というようなことかと思います。