Beerhouse³ 営業日誌

ものづくりの街、新潟県三条市でビール屋やってます

公的機関への寄付は民主主義の進歩か政府の怠慢か


はい、どうも新潟県三条市クラフトビールの店をやってる、いけのです。ビール屋だけど、元市役所職員なので、まあ、ちょっと政治問題とかも少しは普通の人と違う視点を持っていたりする。

 

一昨日(2023/8/7)、国立科学博物館がクラファンで運営費を集めると発表して、瞬く間に目標を達成した、ということで話題を集めていますね。

 

www3.nhk.or.jp

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民間のクラファンは、まあ、クラウドファンディングが「クラファン」と普通に略させるくらいには普通のこととして定着しつつあるけれども、最近、公的機関が資金難からクラファンを募るケースが増えてて、これはちょっと話が別だぞ、公的機関の場合は政府や自治体がちゃんと差配しろよ、何のために税金取ってるんだよ、という意見は以前からありました。

 

 

特にネット上では政府批判が強くて、あまり前向きな点は語られないですし、今回の制度の詳細は見てないんですけども、原則としては、公的機関への寄付なので、これは税の控除対象になるハズです*1

 

つまり、ざっくり言うと、国に納めている税金が何に使われるか資金使途が不明で信用できないから、自分の支持したい公的政策/機関には政府を通さずに直接、自分の意思でお金を使いたいよ、という人には道を開いた、ということですね。

 

あまり聞こえてこないけどポジティブな態度としては、公的資金の使い道について市民が直接発言できるようになったのだから、これは民主主義の進歩だってことですよね。

 

 

一方、批判としては、その納税した国家予算を配分するのが、選挙で選ばれた議員や官僚の仕事であって、その職責を放棄しているんじゃないの? という意見も強いですね。

 

これは、ふるさと納税なんかも同じような構造の問題だと思うんですが。

 

ただ、この批判は難しいところで、確かに予算配分は議員や官僚の仕事だけど、じゃあ、実際、今の国会議員や官僚って、国民が期待する予算配分を満足に実行できているんでしたっけ、というのが次の問題ですよね。

 

それは本当に彼らの無能や怠慢のせいなのか、あるいは我々、有権者が選挙で為政者の選択を失敗しているせいで停滞しているのか。

 

それとも、社会が複雑化したことで、国家予算の配分という職務は本来、その専門家であるはずの国会議員や公務員を他の誰かに代えたところで、実行不可能なくらい難しい仕事になっているのか。

 

 

これは、いわゆる「大きな政府か、小さな政府か」という問題、国家はどこまで介入すべきか、逆に、どこまで個人の自由な裁量を認めるべきか、って話なんだと思います。

 

 

そうなると、次に課題となるのは、実際に指摘している人もいますが、国立科学博物館みたいなキャッチーで分かりやすい施設は多額の寄付を即座に集められるだろうけれども、他の施設や政策はどうなんだ、という問題になりますね。

 

ざっくり思いつくだけでも、地元住民と専門の研究者以外にはあまり価値を理解されない小さな郷土資料館、誰でも生活には必要だろうけどもポジティブに応援するかというと難しそうな斎場やゴミ処理施設、消防や警察、あるいは、社会の安定のためには必要だけど直接、利害関係者となる人は少ない、福祉関連の施設や事業も当事者以外の市民には直接的なメリットが分かりづらいですよね。

 

こういう事業や施設がクラファンを実施したとして、どれだけ支持されるか。

 

 

つまり、批判している人たちは、今ですら公的資金の分配が不平等を悪化させているのにも関わらず、クラウンドファンディングみたいな民衆の意思に委ねる方法は、より悪化させるのではないか、という懸念を表明しているのでしょう。

 

このような傾向が進むと、国民感情に訴える能力の高い機関に資源が不均衡に配分され、必要不可欠なのに華やかさに欠ける機関は資金不足に陥るのではないか? と。

 

 

もちろん、だからこそ逆に、キャッチーな機関はどんどん直接資金を募って、理解されづらい機関に限りある公的資金を優先して注入すべきだ、という意見もあるかもしれません。

 

 

これは完全に民主主義の理想についてどう考えるか、という思想の問題ですよね。

 

一人一人の個人は、自分にとって本当に必要なものに常に冷静に投資できるのだろうか? 

一人一人は賢明で善良でも、集団になったときに暴走しないのだろうか? 

あるいは、一人一人は愚かで無思慮な我々でも、集団として行動すれば統計的に最適解にたどりつけるのか?

それとも難しい判断は、その分野の専門家(議員や官僚)に委ね、大衆は選挙などを通じて、その専門家の評価だけをするべきなのか?

 

 

という訳で、国立機関のクラウドファンディング問題というのは、経済成長が鈍化し、高齢化が進んでますますフリーハンドに配分できる予算がひっ迫する我が国においては、民主主義とは何か、大衆と専門家の役割分担をどうするか、という何気に重大な問題につながっているように思います。

 

 

もちろん、実際にはそこまで深刻に考える問題ではなく、中の人たちは単純に「プロレス」をしているだけなのかもしれません。

 

国立科学博物館の人たちが文部科学省に対して、文部科学省の人たちは財務省や政治家に対して、「ほら、国民もこんなに支持してますよ」というアピールの材料が欲しいだけだったり、あるいは逆に財務省側からは「ほら、それなら国の支援は要らないでしょ」と言い返したいだけの、極めて内部的な「政治」の駆け引きに過ぎないのかもしれません。

 

 

ヘッダの画像は、Stable Diffusion XL先生謹製のクラウドファンディングをイメージした、ボトルに貯まるコインの図。どういう絵を描かせるべきか、ChatGPT先生に相談したときに民主主義を象徴するように「多くの手から投げ入れているコイン」という表現案を頂いたものの、複数の手にならなかった上に、相変わらず「手の描画」は1つだけでも崩壊しがちなようで…。

 

あ、なお、今日の文章も、とりあえず思いつく論点をChatGPT先生に(英語で)投げた上で、論理展開と過不足をChatGPT先生に添削していただき、その和訳をもうちょい自然な日本語に直す、という方法でお送りしております。

 

 

以上で本文は終わりで、以下には特に内容はありませんが、はてなブログに追加された課金機能を実験中ですので、これ系の文章をもっと書け、という方は課金を是非。

*1:もしも、現状ではならず、かつ今後もクラファンを推進するのならば、対象にすべきです

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