どうも。新潟県三条市の中心部、「本寺小路」でクラフトビールを中心とした飲食店「Beerhouse³」を、とりあえず何とか営業しております店主いけのです。
このところ店のPCのネットワーク周りが不調で全然、ブログを更新してなくて、すみません。家のPCで更新しようとすると、今度は、朝の時間帯に中々、時間を確保できなかったり、時間を確保できたときに限って、書くための資料を店に置いてきたー、とかいう…。
で、昨日、ついったーで、こういうツイートを見かけたのですが
ADHDは何故本命タスクを先延ばしして別のタスクに取り掛かってしまうのか?私はその謎に迫るべくインターネットを始めたところ、たまたま目にした/ふと思い付いた別の情報が気になり始めてしまい、気が付けば謎を解明出来ぬまま3時間が経過し、ブラウザのタブ数は2桁に達しようとしていた。
— rei (@rei10830349) 2019年10月16日
マジかよ、普通の人はブラウザのタブが1桁で足りるのかよ、とか思いつつ、今朝、全然、別の調べものをしている最中に、幕末の国学者で、越中国に五十嵐篤好(いからし・あつよし)なる人物がいることを発見。
三条市民としては、五十嵐とかめっちゃ気になる苗字。
あ、国学者ってのは、アレね、本居宣長とか、古事記・日本書紀あたりから日本の成り立ちはどんなだったんだろう、という研究を通じて、尊王攘夷思想に影響を与えた人たち。
上記Wikipediaの記事によると、この五十嵐篤好、学者としての顔の他に、現在の高岡市東五位あたりの庄屋としての顔もあり、さらに庄屋としての通称は、「五十嵐小豊次」!
おぉ、本当に下田のつながってそう! まあ、その記事の下の方にある伊賀良志神社云々はちょっと眉唾だけど。
郷土史に詳しくない方にご説明しておくと、鎌倉時代頃の下田郷の領主が代々、襲名した名前が「五十嵐小文治」。字が違うのは、この時代は割とありがちなので気にしない。
単なる伝説だけではなく、鎌倉時代の記録「吾妻鏡」にも名前が出てくる、らしい。未確認だけど。
さらに、現在の飯田小学校のあたりに、鎌倉時代にそれなりに威勢を誇ったらしい領主の居館遺跡があって、この五十嵐氏の居館だろう、と考えられている。
さらに、この飯田小・五十嵐館跡の裏手に「五十嵐神社」があって(神社の境内周辺に城跡もあるらしいのだけど)、平安時代に編纂された「延喜式」に記載された蒲原郡の「伊加良志神社」とは、この神社のことだろう、と考えられている。
さっきの五十嵐篤好のとこの神社の家系云々の神社ね。
まあ、平安時代、鎌倉時代にも今と同じ場所にあったかどうかは別として。
で、本当に、この下田の五十嵐氏が越中に勢力を伸ばしたのか、というと、「吾妻鏡」に、「五十嵐小豊次太郎惟重」という人が、越中の「国吉」という土地を巡って訴訟になった、という記録があるらしい。
で、この国吉って地域は、今も高岡市内に地名が残っていて、さっきの東五位って地域のすぐ隣らしい。というか、多分、時代によって同じ名前で呼ぶエリアの広さが変わっていて、実質、同じ地域。
承久の乱の勲功で手に入れた土地だとのこと。
まあ、実際には、戦国時代とか江戸時代とかに、先祖の業績を調べた結果、よく分からなかったんだけど、偶然、見かけた同じ(似た)苗字の先祖の子孫を勝手に騙ってる場合とかもあるので、詳細はもう少し現地の郷土史を調べないと分からないんですけども。
てことで、鎌倉時代の下田郷を支配した領主、五十嵐氏が本当に威勢があり、思わぬところに子孫が広がっているんだなぁ、というのを見止めたので、誰の役にも立たないけど、個人的に興味があったので、備忘録的に。
とりあえず、高岡は伝統産業(とビール)方面でそのうち行きたい街ではあるので、行ったついでに郊外にも足を伸ばすか、的な。
なお、「いけのさん、なんで、そんなこと知ってるんですか?」って昔からよく言われるんだけど、日常的にこういうことをやってるからです。
インターネットが普及する前は、紙の辞典・事典とかで同じことをやってたので。