どうも。新潟県三条市の中心部、「本寺小路」でクラフトビールを中心とした飲食店「Beerhouse³」を、とりあえず何とか営業しております店主いけのです。
うちのブログで掲載以来、常に検索流入1位をキープしている記事が、「三条市の地名の由来」です。結論は「分からない」ということをひたすら書いてるだけの記事なので、タイトルサギみたいで申し訳ないですけども。
で、今回は「おはなし」としては面白いけども、多分、可能性としてはない、と断った上で、三条の地名の由来がひょっとしたら、やっぱり京都の三条なのかも、という話です。いや、ないと思ってますけども。
ないと思いながら先日、現地に行ってきましたので、写真なども交えながら。
以下、ややこしいので今回は京都の三条を京都三条、我々の三条を越後三条として区別します。とは言え、地名以外の固有名詞があるので結局、ややこしい。
京都の粟田口
日本の刀剣の歴史や、越後三条以外の刃物産地の歴史をたどっていると、ときどき出てくる地名に、京都の「粟田口」(あわたぐち)という地名があります。
曰く、「粟田口に住んだ鍛冶の誰誰がよりよい製作環境を求めて旅に出て当地に移住」云々。
京都の地理に明るくないので、粟田口が京都のどの辺か全然、土地勘がなく、特に今まで気にしてもいませんでした。「口」というくらいで京都との主要な出入り口の1つらしいことは分かっても。
で、最近知ったのは、粟田口の場所ですが、具体的には粟田口から京に入ってった先にあるのが、「三条通り」、鴨川を渡るときの橋が「三条大橋」で*1、粟田口は別名、「三条口」とも呼ばれてきたらしいです。
十返舎一九の「東海道中膝栗毛」で、弥二さん喜多さんが出発した東海道五十三次のスタートが江戸の日本橋なのは有名ですが、ゴールは、ここ京都・三条大橋*2。
なんと、中世の日本で最も有名な鍛冶の街の1つが(京都の)「三条」*3。
まあ、「七口」として整備されたり、橋が架かったのは、今日、取り扱う時代よりはもう少し後のことのようです。それでも、おそらく昔から重要な玄関口だったことでしょう。Wikipediaに地図もあります。
三条鍛冶と粟田口派
粟田口に鍛冶師が集住した、ということでつながるのが、三条小鍛冶宗近と小狐丸ですね。謡曲「小鍛冶」の元ネタであり、越後三条に伝わる三条神楽「宝剣作の舞」の元ネタでもあります。
実際、宗近は当然、京都三条に住んでいたので三条小鍛冶と呼ばれたわけです。そして、それは三条と言っても京都の市中ではなく、鴨川を東側に出た粟田口あたりだったようです。
宗近は平安時代の中頃、日本の刀が直刀から、反りのある、我々がイメージする「日本刀」に変わりつつある時代の代表的な刀工です。
天皇の指示で作ろうとした刀が上手く打てず、稲荷神社に参ったところ、不思議な童子が相槌を打つ*4ことで、無事完成した、というのが「小狐丸」。
ゲーム「刀剣乱舞」が出た頃、主要キャラの一人に宗近(が作った刀剣の擬人化)がおり、結構な数のお姉さんたちが三条つながりの鍛冶、ということで訪れた、と「三条鍛冶道場」の職員の方から聞いたことがあります。
以下、粟田口周辺の鍛冶関連の神社の写真。
本当は旅の神である粟田神社から奥に入っていった知恩院や青蓮院の境内を含む周辺に実際に鍛冶師が作業したらしき遺跡があるらしいですが、この日は9月とは言え、暑すぎてまわるのを断念…。何なら裏の山が「将軍塚」と言って、長らく坂上田村麻呂が東国を見つめながら眠る、という伝説もあったようで、この辺りも武具製作とつながりそうですが。
物流拠点としての京都三条
京都三条に鍛冶師が集住した理由は何か。
はっきりとした確証はありませんが、1つは当時の工業団地みたいなものだったんだろうと思います。騒音や悪臭、そして、おそらくは火災のリスクなどにも備えて京都の中心から少し離れたところに置いた。
京都の中心から離れたところに拠点を置くにあたり、東側の粟田口・三条に集まったのは、なぜか。
これも推測するしかないのですが、普通に考えれば薪炭(燃料)や鉄(材料)、砥石などの副資材が入しやすい場所だったのではないかと考えます。
それらの素材のうちいくつかは東山の丘陵から直接、産出されたのかもしれませんが、それより大きなメリットとして考えられるのは、京都の主要な入口として人間の移動だけではなく、物流拠点としての京都三条の立地です。
京都三条は東海道・中山道の京都側の出発地点、というだけでなく、東海道五十三次の京都の手前の宿場は、滋賀の大津で、琵琶湖を使った水上交通の拠点でもあります。
前述のとおり、三条大橋や東海道五十三次が整備されたのは、戦国時代以降のようですが、平安時代から琵琶湖をたどって運ばれてきた北陸や日本海側の物資が、この粟田口・三条口から京都に持ち込まれたようです。
鎌倉時代の成立と言われる「宇治拾遺物語」に以下の記述があるようです。
大童子鮭盗みたる事
これも今は昔越後国より鮭を馬に負せて二十駄ばかり粟田口より京へ追ひ入れけり。それに粟田口の鍛冶が居たるほどに(略)
現代語訳
これも昔の話、越後の国から鮭を馬に負わせ二十駄ほどが粟田口から京に入った。ところが、粟田口の鍛冶屋が住んでいた辺りで(略)
越後からの物資が粟田口から京都に持ち運ばれていた。
その粟田口には鍛冶屋が集住していた。
後鳥羽上皇と粟田口派の衰退
宗近は平安時代の刀匠ですが、粟田口派の最盛期はそこから下って、鎌倉時代初期のようで、この時代に複数の名のある刀工が世に出ているようです。
鎌倉時代初期と言えば、自ら鎚をふるって刀を打ったと言われる後鳥羽上皇の時代です。
しかし、承久の乱で後鳥羽上皇が破れると、政治の中心はいよいよ鎌倉に移ります。刀工の世界でも、その後も引き続き京都にとどまった一派もいるものの、後鳥羽上皇の御番鍛冶を務めた粟田口国綱をはじめ、鎌倉に移住した人間もあり、それが後に正宗を生む相州伝へとつながっていくようです。
そして越後三条へ(?)
冒頭の他産地の伝承で「粟田口から云々」というのも、この鎌倉時代の粟田口における鍛冶の衰退か、あるいはもう少し後、南北朝や応仁の乱といった戦乱を避けて、ということなのだと思います。
そして歴史上、越後三条の地名が登場するのも、この鎌倉時代の後半です。
つまり再三、強調しておきますが、可能性としては極めて低いものの、次のような越後三条の地名の由来が考えられる…?
京都三条にいた鍛冶師の集団が、荒廃する京都での活動に見切りを付けて北陸に下向し、越後国内で信濃川と五十嵐川の合流点にある大槻荘に物流の拠点性に目を付けて移住、京都の故地を懐かしんで三条と名付けた。
以上、可能性としてはナシだなあ、と思いながら3,000字以上も書いてみました。
参考文献
粟田口や京都三条の鍛冶については下記2つの論文を参考にしました。
河島一仁「日本における鋳物師・鍛冶に関する研究の進展 : 歴史地理学的「職人集団研究」の可能性」(2012)
https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/627/627PDF/kawashima.pdf
野崎準「三条・粟田口と刀匠伝説――都からみちのくへの入り口に――」(2019)